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 たしかに「敬天愛人」を座右の銘とした西郷は、同時代の人びとからも愛嬌あふれる人物として親しまれていました。しかし一方で、西郷をよく知る周囲の人びとの中には、まったく異なる評価をする人もいます。


 たとえば、薩摩出身で、後に東京帝国大学教授となった重野安繹(しげのやすつぐ)。西郷とは同い年で、しかも西郷と同時期に奄美大島への流罪を経験しており、その人柄をよく知る人物でしたが、次のように証言しています。


「西郷は兎角相手を取る性質がある。これは西郷の悪いところである。自分にもそれは悪いということをいって居た。そうして、その相手をばひどく憎む塩梅がある。西郷という人は一体大度量がある人物ではない。人は豪傑肌であるけれども、度量が大きいとはいえない。いわば度量が偏狭である。度量が偏狭であるから、西南の役などが起るのである。世間の人は大変度量の広い人のように思って居るが、それは皮相の見で、やはり敵を持つ性質である。トウトウ敵を持って、それがために自分も倒れるに至った」(重野安繹『西郷南洲逸話』)。


 重野によれば、西郷は常に敵をつくり憤慨している人間であり、自らの度量が狭量なことを自覚していた。そして、その狭量な性格のために、明治新政府の中でも衝突を繰り返し、最終的には「征韓論」の敗北を経て「西南戦争」で自滅してしまったと言うのです。


 この証言は、思想史研究においても重要な意味を持っています。拙著『未完の西郷隆盛』でも詳述したように、右翼結社「玄洋社」総帥の頭山満(とうやまみつる)は、西郷の「敬天愛人」思想に傾倒していましたが、その頭山の影響下にあった若者の中から次々とテロリストが輩出しました。なぜ「天を敬い、人を愛する」思想から、陰惨なテロリズムが生み出されたのか――西郷の「もう一つの顔」にも注目する必要があるでしょう。

儒教から派生した「朱子学」と「陽明学」の整理メモ(暫定) | Edtech & Inno

儒教をベースにそれを発展させた形が朱子学で、その朱子学を真っ向から批判し否定したのが陽明学です。

日本の江戸幕府でもこの朱子学が採用され、秩序に重んじた保守的な体制を作り上げることに成功しました。しかし、時とともにその考え方だけ独歩し、同時にあった道徳主義的側面が失われ腐敗を招く結果につながったことも事実として残っています。

朱子学の「礼」という形式的なものでない、自由な心から生まれる心の正しさを尊重し、行動・実行することが肝要だとしています。


ただ、当時の幕府にとって「孝を持って行動する陽明学」は危険思想そのものでした。各々が自由に考え行動を起こす思想は厄介と感じた幕府は、官学として国の学問にしなかったり、陽明学に通じる学者などを島流しにしたりもしました。

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