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 2015年の創業以来、大塚家具との争いにならないよう、匠大塚はもっぱらホテルの家具やオフィスの応接家具などのコントラクト関連と百貨店への納品に力を注ぎ、小売りには大きな力を注いではこなかった。大塚家具時代のお取引先からお声掛けいただいても仕入れを急がず、価格帯でぶつからないようにしてきた。


 その一方で、仕入商品を徐々に増やし、私たちなりの売り方で売れる体制を整えてきた。2017年12月には春日部本店や東京・日本橋ショールームで扱っている約1万7000アイテムの一斉値下げを行なったのだが、これは、言ってみれば匠大塚の反撃の号砲だ。社員たちには、「競争をするのだから勝ちなさい」と発破をかけている。


 私自身、創業会社を追われた身である。二度と失敗はできない。親子なのだから久美子の健康も業績も心配だが、なかなか浮上の兆しが見えない大塚家具の状況を見るにつけ、ここで私たち匠大塚が頑張らなければ、日本の家具文化が完全に消えてしまうと感じている。そもそも日本の家具業界が衰退した訳を肌で知る身には、第2創業はなんとしても成功させなければならないものだ。

 大塚家具における事業承継での最大の失敗と反省点は、私自身が「私の時代認識や事業観、経営観などを子どもたちが分かってくれている」と過信していたことにある。というよりも、「言うまでもないこと」という感覚があった。それは私の甘さでもあった。


 私たち夫婦には5人の子どもがおり、いずれもが自慢の子だった。仕事の忙しさにかまけて家庭を顧みない父親であったのに反発することもなく、学校も自由に選び、父親の仕事を手伝いたいと皆が思っていてくれた。


 それは子どもたちが大学で専攻した学部を見るとよくわかる。長女は経済、長男(匠大塚の勝之社長)は彫刻科、二女は法律、三女が芸術学部、次男が建築であり、誰もが「大塚家具のために役に立つだろう」と考えての選択だったようだ。


 子どもたちがそれぞれに「自分を認めてもらおう」と思ってやっていたことであるが、私はそれを積極に認めてあげようとしていなかった。その気遣いのなさは責められてしかるべきものだったかもしれない。


 子どもたちが大塚家具の仕事と関わるようになっても、それは基本的に同じだった。「親子だから」という帝王学を施すわけではないし、あくまでも一社員として他の社員と同様に叱ったり褒めたりしていただけだ。それでもなお私には、「見ていれば分かるだろう」という期待があったのだ。


 私は心の中では、長女と長男が協力してやっていくのが一番だと思っていた。2人でやったら、絶対にどこにも負けない会社になると思っていた。子どもたちの大学での専攻が異なるように、それぞれが得意な分野で力を発揮してもらう。長男の勝之が営業を担うなら、長女の久美子は財務を担うといった具合だ。


 その上で、将来的には大塚家が大塚家具の経営から身を退き、いわゆる「資本と経営の分離」の体制をつくることが望ましいと考えていた。実際、そのための準備も始めていた。


 例えば、普通ならば「長男が跡を取るのだろう」ということで、長男には資産管理会社の株の半分を持たせていた。しかし資本と経営の分離を考えればこうした状態がよいわけではなく、実際、他の子どもたちからも異論が出たので株を均等に分けることにした。長男は不満だったかもしれないが、将来の事業経営を考えれば均等に持つことが大塚家や大塚家具にとって最良の方策なのだと納得してもらった。


 その際、妻には株を配分しなかった。つまり5人の子どもたちが19%ぐらいずつ株を持つ形にした。私は、「これでいいのだ」とほっとした気持ちでいた。


 しかし、この均等に分け与えたことが、後に私や長男の役員解任につながるものになったのはなんとも皮肉だ。妻にも同じように株を持たせていれば対抗ができたかもしれないが、今さらそれを言っても始まらない。


 もう一つの反省点は、これは私の欠点でもあるのだろうが、「経営を楽しく見せなかった」ということだ。


 私は小学生の頃から、桐だんすの職人であった父の仕事を手伝い、お店で家具を売っていたから、家具を見る目は誰にも負けない自負があった。だから商品仕入もすべて私一人で判断してきた。それは全責任を私自身が引き受けるという覚悟なのだが、そこで経験していた苦悩によって「経営は楽しいものではない」というムードを周囲に発していたのかもしれない。

 長女の久美子は1994年に大塚家具に入社した。当時、バブル崩壊後に大規模小売店舗法が改正され、さらにバブル期に計画された建物が完成はするものの借りるテナントがなく、家賃は下がり続けていた。この2つの流れを追い風に、大塚家具は全国に店舗網を拡大、急速に社員が増えたりして組織体制の構築が急務になっていた。


 そこで私は、当時、富士銀行(現みずほフィナンシャルグループ)に初の女性総合職として入行し融資業務や国際広報などを担当していた久美子に、人材育成などの内部体制づくりを任せたいと思い大塚家具に入社させた。先にも書いたように、子どもたちがそれぞれの能力を発揮して会社を育てていく最初の一歩とする考えもあった。

 私の商売の鉄則は、「良い物の価値を、十分な説明でご納得いただいて、値引きなしで売る」ということだ。家具業界に大きな反発を受けながらも取り組んできた改革であり、大塚家具は消費者に支持されてきた。その考え方は、今後この連載で詳しく述べさせてもらおうと思っている。


 振り返れば、売上高が数百億円から1000億円を狙えるまでに急成長を遂げている過程で久美子は入社し、内部体制の整備に力を注いでくれた。しかし一方で、彼女は物を売る現場で私の鉄則を学び、身につけてきたわけではない。会社を離れていたときには法科大学院にも学び、コンサルティングの会社を設立したように、きちんと理屈立てて考えるのが好きだし、それが正しいと思っているのだろう。


 それ自体を間違っているとは思わない。だが、創業者がどのような環境の中で、ある意味でワンマンで理屈に合わないような鉄則を駆使しながらも企業を成長させてきたかを、後継者として学ばせる必要があったように思う。そして、「姉弟の役割分担」を学ばせなかったことを深く反省する気持ちもある。