https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com


近代科学の中核にある構成的実験とは、余計な要素は切り捨てて、理想的な条件のもとで必要な要素だけを取り出して操作することです。
自然はそのままではとても複雑ですから、単純に要素だけ取り出すことはできませんが、
科学はできるだけ単純な要素に分解して、人間の認識にとって必要なものを取り出しています。


一方、身体は自然が持っている複雑さを同時に持っています。


自然を相手にするにしても、科学はできるだけ対象を単純化しようとしていますが、
自然は変化し続けているので、複雑さを片方に置いておかないと、
自然を単純化しすぎて、人間の都合にひきつけすぎてしまうのではないでしょうか。


例えば医学で言うと、病気は治ったけれども患者は死んだということになりかねない。
また、生態系の破壊や環境汚染などが生じてしまう。
自然の複雑さをもういっぺん、身体で感じ取りつつ、その条件を単純化することが大切です。


そのあたりが、実験室での操作は、余計な要素を取り除いて、自然を純粋化することですが、
純粋化された自然が本当の自然だと思い込む錯覚があるように思います。

細分化は学問の発達にとって必要なことですが、科学が細分化されるにしたがって、
私たちは自然を全体として相手にしていることを忘れがちです。


すると良いと思ってしたことが、結果として最悪な事態を起こすことになりかねません。


実験室において、法則なり新物質なりを取り出すために、
対象を細分化して、機器に閉じ込めて、条件を純粋化するにしたがって、
全体の自然を切り取って操作していることを忘れがちになるということですね。


環境問題、食糧問題、温暖化問題、エネルギー問題など、
人間が、これまで細分化的な方法でやってきたところが、全体のバランスが崩れ、コントロールできないことになっています。


これらの問題は技術的に解決できると考える人がいるけれども、
私はそれは楽観的過ぎると思っています。
もちろん、対症療法的な方法として技術的な進歩もあるでしょうが、
それがまた別の副作用を起こすことがあり得ます。


自然の全体像を人間はある意味、忘れてきました。
細分化して分析する方向のみ進んできたので、全体のバランス感覚を失いかけています。


しかし、新たなものごとに出会ったときに、嫌だなと不愉快に感じる身体センサーが
人間にはもともと備わっています。

学生時代、私はワンダーフォーゲル部でした。
山に登ると、頭で考えたことは役に立ちません。


もちろん考えはするけど、現場に立ってみないとわからないことがある。
やはり本で読んだことでわかるのではなくて、実際に体験することでわかってくるし、
感覚を研ぎ澄ますことができます。山に登って天候の変化や岩場の危険を感じる、そういう感覚です。

もちろん一般市民や文系の学生が、「科学技術リテラシー」を身につけることは必要不可欠です。

その一方で、科学者や理系の学生が、
自分たちがやっている研究がどういう社会的結果をもたらすかを知らないで、
研究を続けていくのは無責任だし、甚だ危険なことだと思います。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180118#1516272035

#科哲