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旭川学力テスト事件」という訴訟の最高裁判所の判決(1976年)で、こんな一節があります。

憲法26条が教育を受ける権利を規定している背後には)「国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること...が存在していることが考えられる。......換言すれば、子どもの教育は、教育を施す者の支配的機能ではなく、何よりもまず、子どもの学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にあるももの責務に属する」

つまり、憲法が「教育を受ける権利」を保障しているのは、一市民として、一人の人間として生きていくのに必要だから。憲法13条もいうように、人は「個人」として尊重される。そのための教育なのです。


教育基本法や学校教育法でも、教育は、個人の価値の尊重や、自主・自律の精神を養うことなどのためのものだと書かれています。

泰明小の文書で説かれている内容は、この判決と対極の考えになっています。子どもたちを一人ひとり個人として尊重するのではなく、「この小学校のあるべき姿」のほうに子ども達を合わせようとしている。ここが一番の問題だと思います。

「外(他人)からどう言われるか」という親の子どもに対する叱り方も同じです。子どもたちは、よく見ています。「親は自分の体面ばかりを気にしている。自分のことを大切に思って叱っているんじゃない。」と。それを思い返してみて欲しいと思います。


もちろん、自分が周囲からどのように見られるかを考えることも、社会の一員として暮らしていくうえで、大事なことです。しかし、「周囲の目」を過度に重視し、そこから出発するような指導は、教育とはいえません。

 旭川学力テスト事件の最高裁判決が言っているように、教育は、教育をする側の「支配的機能」ではなく、子どもの学習権を充足するためにこそあるのです。


校長の文書の中で、歴史や風格、地域とのつながりにも言及している部分もありました。


140年も続いた学校の歴史や風格への誇りが先にあるのでしょう。そういう面を大切にしたい気持ちは分かります。


しかし、一人ひとりの子どもに向き合った教育を積み重ねた結果としてその歴史や風格が続くならともかく、その逆に、歴史や風格を維持するために子どもを教育する、という姿勢は本末転倒です。

子どもたちが、地域の中で一人の人間として尊重されていると実感できること、地域が自分の居場所なのだと感じられることが重要なのです。

アイデンティティーは、子どもが成長、発達していくなかで、模索しながら自分で形づくっていくものです。特に10代は、自分探しをしながら自分を形づくっていく大事な時期です。


自分が所属する社会や組織・団体、ルーツや性別、セクシュアリティ、民族というもののなかで、自分で少しずつ、お互い尊重しあいながら築いていくものです。「○○学校の生徒だから」「男の子だから」「日本人だから」などと、周囲から押しつけられ、それに従わされるものではありません。


自分で「この学校が大好きで、愛着や誇りを持っている」と、自らアイデンティティーを持てるのは素敵なことだと思います。だけど、それは押しつけられてもたらされるものではないのです。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180208#1518086263

旭川学テ事件 - Wikipedia

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