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 眞子さま秋篠宮家の長女として誕生されたのは1991年10月23日。両陛下にとって待望の初孫だった。


「世間は祝福ムードに包まれましたが、ひとり大きなプレッシャーを感じていたのが(母の)紀子さまでした。眞子さまは、将来国民の前に立って公務を担わなければいけない女性皇族という存在ですから、しっかりと育て上げなければならないという責任感を強く抱かれたようでした」(皇室ジャーナリスト)


 紀子さま秋篠宮さまの結婚に「一悶着」あったことも影響した。


学習院大学共同住宅で暮らされていた『3LDKのプリンセス』であった紀子さまには、格式や家柄を重視する皇室内の一部から“お相手としていかがなものか…”と囁かれました。加えて、秋篠宮ご夫妻の婚約が内定したのは、昭和天皇の喪が明ける前の1989年9月。それ自体も異例のことでしたが、当時、皇太子さまはまだご結婚前でした。暗黙の了解である『長幼の序』という考え方からも外れたものでした」(ベテラン皇室記者)


 もし、子育てに落ち度があれば、「やっぱり…」と後ろ指を指されることにもなりかねない。ご結婚後、紀子さま美智子さまのもとを頻繁に訪ね、皇族としての心構えから立ち居振る舞いまで丁寧に教えを請われていたのは、不安を打ち消したいという葛藤からだったのだろう。紀子さまの、眞子さまへの接し方は自然と厳しいものとなっていった。


紀子さまは“私がしっかりしなければ”というお気持ちを強くもたれていました。眞子さまには常日頃から、“皇族としての自覚を持って行動するように”と口を酸っぱくして言われていました。言葉遣いや立ち居振る舞いはもちろんのこと、学習院初等科時代、眞子さまが花壇の縁のブロックの上を歩こうものならすぐに厳しく注意。でも、おふざけするのが普通の年頃でしたからね。周囲は“眞子さまはあんなにお利口さんなのに、紀子さまは厳しいわね”と漏らしていたほどです」(学習院関係者)


 紀子さまの厳格な姿勢は、1994年に佳子さま、そして2006年に待望の男子である悠仁さまが誕生されたことでさらに加速した。


悠仁は私たちだけの子ではありません。両陛下からお預かりした大切な命なのです」


 その頃から、紀子さまはことあるごとにそう口にされるようになった。


「長らく皇室に男子が誕生しない中にあって、悠仁さまが生まれたことは、皇統の存続という面において大きな意味を持ちました。さらに、陛下の孫世代の男子は悠仁さまただお1人。将来皇位を継承するのが確実なことが、より紀子さまのプレッシャーを大きくしたようでした」(前出・ベテラン皇室記者)


 かつての日本の家庭では、家督を継ぐ長男を中心に家庭が回っていくことはよくあった話だ。まして、皇位継承権をもつ悠仁さまが誕生された秋篠宮家において、その傾向が強く表出することは無理からぬ話だった。悠仁さまの誕生は、将来、眞子さまや佳子さまが「天皇の姉」になることを意味していた。


眞子さまだけでなく、佳子さまにもより厳しくされたようです。あるお身内だけの食事会のとき、佳子さまが秋篠宮さまのことを“お父さま”と呼んだことがあったそうです。そうしたら紀子さまが“殿下とおっしゃい!”とぴしゃり。周囲が“身内の席だから”となだめても“けじめですから”と頑とされていたといいます。


 あまりに前のめりな紀子さまに、眞子さまが息苦しく感じられることもあったんだと思います。紀子さまからの『お小言』に対しての反発を口にされたこともあったといいます」(前出・皇室ジャーナリスト)


 だが、細心の注意を払おうとされるのは「天皇の母」となる紀子さまにとっては当然のことだった。それは、小室さんに金銭トラブルが持ち上がっても同様だった。


「400万円という金額が高いと見るか安いと見るかは人ぞれぞれです。ですが、もし金銭トラブルを抱えたまま、現在の経済力で眞子さまと小室さんが結婚すれば、夫婦を利用しようという目的でお金や職をチラつかせて近づこうとする人たちがいてもおかしくありません。小室さんのことを、『将来の天皇の義兄』という色めがねで見れば、400万円の借金を肩がわりすることぐらい、大したことじゃないでしょうからね。紀子さまにとっては、そういったスキさえ脅威に感じられたのではないでしょうか」(前出・皇室記者)


 悠仁さまファーストを貫かれる紀子さまの、“天皇の義兄”への視線が厳しくなるのは仕方がないことだったのだろう。だからこそ、眞子さまと衝突してでも、小室さんとの結婚に待ったをかける必要に、紀子さまはかられたのかもしれない。

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