[京都新聞]新「びわ湖浜大津駅」で式典 京阪4駅で駅名変更 https://t.co/XodrnPoXaH
— 京都新聞 (@kyoto_np) 2018年3月18日
京阪電鉄は17日、大津線の4駅で駅名を変更し、新たに「びわ湖浜大津駅」となった旧浜大津駅で記念式典を開いた。大津線での駅名変更は59年ぶりとなる。
京阪大津線(石坂線)の4つの駅名が3月17日に変わりました! https://t.co/LpXMXun3L7 pic.twitter.com/gOluWHxqMM
— おおつうしん@大津市情報サイト (@oo24n) 2018年3月18日
西日本旅客鉄道(JR西日本)湖西線の大津京駅に接続することから、2018年3月17日のダイヤ改正に合わせて皇子山駅(おうじやまえき)から改称された。
斉明天皇6年(660年)百済が新羅と唐に攻められて亡んだ。倭国(後の日本)にとって百済は同盟国であり、国外にある防波堤でもあったため、当時の倭国の政治指導者である中大兄皇子(後の天智天皇)は、百済復興を強力に支援しようと、朝鮮半島へ出兵した。しかし、天智天皇2年(663年)の白村江の戦いにおいて倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に惨敗し、百済復興は失敗に終わった。
百済復興戦争の敗北は、中大兄政権にとって大変な失策であり、国外に大きな脅威を抱えることとなった。そのため、北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の朝鮮式山城(例えば、筑前にあった大野城)や連絡施設を築くとともに、最前線の大宰府には水城という防衛施設を設置して、防備を固めた。
日本書紀によるとこの遷都には民衆から大きな不満があり、昼夜を問わず出火があったという。
『今昔物語集』『元亨釈書』や園城寺の寺誌には、大津宮西北の滋賀山中金泉谷(現在の大形谷)に崇福寺が建立されたとの記載があり、この位置関係を唯一の根拠として、近世以来、錦織(御所ノ内)説、南滋賀説、滋賀里説、穴太説、粟津説などが唱えられた。
1974年(昭和49年)錦織一丁目の住宅地の一画で発掘調査が行われ、初めて内裏南門跡と考えられる13基の柱穴が発見された。柱穴からは670年頃の時期を示す須恵器・土師器片が出土したため、錦織遺跡が大津宮の遺構と断定されるに至った。
日本書紀には天智天皇の近江の都を「近江京」と表記しているが、平城京や平安京のような条坊制が存在したことを示す記載はないほか、特別行政区としての「京域」の存在も確認できない。このことから、近江京とは「おうみのみやこ」の意味であると考えられる。
明治時代に喜田貞吉(歴史学者)が条坊制の存在を信じて文献史料にはみえない「大津京」という語を用いて以降、歴史地理学や考古学の研究者がこの語を用いるようになった。近年では条坊制の存在を否定する研究者までがこの語を用いているためその概念や定義は極めて曖昧となり、研究に混乱をきたしている。
また、JR西日本湖西線の西大津駅は、地元自治体の請願により2008年3月に「大津京駅」に改称されたが、「大津京」という用語や概念をめぐり更なる誤解や混乱を生む恐れが指摘されている。