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#勉強法

新刊・増刊・増刷スレ 第101刷

審査基準論と比例原則・三段階審査
 さて、最近、論者によって、審査基準論に対する鮮烈に攻撃的なレトリックを伴いながら、比例原則・三段階審査について論じられる場合がある。三段階審査というのは、権利の保証範囲の特定、介入ないし侵害の有無の判断、その正当化の可否という三段階であり、正当化の部分につ いて、比例原則が問題となり、そこでは、手段の合理性、必要性、狭義の比例性が問題となるとされる。二段階目までの問題は、審査基準論か比例原則かという問題ではなく、従来の議論でも必要な際は分析がなされており、実際上不要な際はわざわざ項目立てされていなかったにすぎない。


また、代表的な審査基準論者の判例分析に粗雑なところがあったとすれば、それはより正確な分析があるということにすぎない。正当化の部分について、スライディング・スケール的な思考方法をとることを、比例原則が志向する場合、たしかに類型化を志向する審査基準論との差異が現れてくるのであろう。論証責任を意識していないところは、判例の立場と比例原則論者とに近いところがあるの かもしれない。


しかし、もし、比例原則論者も類型化の必要を説くのであれば、結局は狭義の比例性について裁判官の判断を信頼できないからその恣意を統制する必要があるとの審査基準論者の発想が基本的に正当 だということにならないか。また比例原則論者の趣旨が、審査基準論が学説の努力にもかかわらずに判例に受け入れられないから別論を考えようという点にあるのであれば、その判例評価の適切さと、実 務による学説の受容をどういうタイムスケジュールで考えているのかという点が、問われなければならないように思われる。
(「リーガルクエス憲法?人権(第2版)」p15 松本哲治同志社大学大学院教授執筆部分)

ドイツの手段審査は、アメリカの中間審査基準における手段審査に対応する審査をすべての事案に対して行っており、アメリカのように合理性の審査、中間審査、厳格審査を事案の類型に応じて使い分けるという枠組みはもたないことになろう。この理解が正しいとすると、ドイツの比例原則は、事案の類型に応じて審査の厳格度を区別するという「審査基準」の存在しない、その意味で事案ごとの個別的衡量という性格の審査手段であると理解できるのではないか、(審査基準がないという意味でこれを「裸の利益衡量」と性格づけたところ、多くのドイツ憲法研究者から強い反発を受けた)
(「体系 憲法訴訟」 高橋和之 p243)


アメリカの審査手法が「基準に基づく利益衡量」であるのに対し、ドイツのそれは基準なしの「裸の 利益衡量」と評することができよう。
(「立憲主義日本国憲法(第4版)」高橋和之 p141)


しかし、審査密度を高めるとは何を意味するのか。現実に密度の高い審査がなされたかどうかを、 どのように確認するのか。どのような場合に、綿密に書かれていると言えるのか。それを判断する基準が定式化されていないのである。審査基準論のように、厳格度の違いの定式があれば、該当する定式に従った判断がなされているかどうかを判決理由から検討しうる。もちろん、定式に該当しているかどうかの判断は個々人により異なりうるが、定式の適用の違いが生じているかが分かるから、透明性が高まるのである。比例原則の場合は、定式がないので、その分透明性に欠けることになる。私が、比例原則は、結局個別的利益衡量ではないかと理解したのは、このためである。
(「体系 憲法訴訟」 高橋和之 p248)

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