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地方紙記者: 勉強家で偉ぶらず、シャイだった。私は81年、ロッキード第一審から担当しました。角さんは当時63歳、僕も今その年齢ですがね、子供ほどの年の記者にも丁寧に対応した。ファイルが200くらい並ぶ棚から「秘 国鉄総裁」などと判が捺(お)してある書類を持ち出しては、「勉強する気あるかい。本気なら1面で7、8回は連載できるな、うん」と言う。たまに昼飯に呼んでもらってうな重を食べるんですが、こちらの顔を見ずに「食べろ」とうなぎを寄越す。

ブロック紙記者: 実力者にありがちな横柄さがなかった。

全国紙記者: しょっぱいのがとにかく好きで、天ぷらそばも伸びてから、醤油をかけ「うまいうまい」と食べる。今年で古希の私は、角栄が首相になった72年7月7日からの担当です。番(記者)は16人で、田中自ら図面を引いて目白私邸内の倉庫を改造して作った20畳くらいの「番小屋」にたむろしていました。角栄の朝は早く、5時に起きて新聞を読む。そして6時過ぎには陳情客を乗せたバスの一団が押し寄せてくる。


地方紙: 夜も早く、宴会の料理にはあまり手をつけず、8時には帰宅して家で茶漬けをすする。一度寝て、12時くらいに起きて書類を見るなど勉強した後にまた寝る……昔からこのサイクルは変わらなかったようですね。

通信社: 三木派の連中は敵対しているのに平気でカネを無心していた。「あなたの悪口ばかり」と佐藤昭ちゃんが忠告しても、「カネないんだから渡してやれ」と田中は聞かないんだ。


ブロック紙: 彼の持論は「僕には誇るべき学歴も閨閥(けいばつ)もない。頼れるのはカネと新潟の人だけだ。宏池会の公家さんとは違う」。池田勇人大平正芳ら大蔵省出身の政治家が多く、金融機関からの献金が豊富な宏池会とは違って、カネは自分で作らなくちゃいけないということだね。さらに「カネは渡すより貰う方がつらい。だから素直に受け取って貰えるように配るんだ」とも言っていた。受け取りやすいのは弔いの場面だとわかっていたのでしょう。香典がひとケタ違って50万円なんてことも。田中の従兄弟で田中利男という秘書がいましたが、彼の朝一番の仕事は朝刊全6紙の訃報欄のチェックだった。


TV: 角さんの「結婚式は招待状がなければ行けないが、葬式は見つけたらすぐ行け」は箴言(しんげん)です。


ブロック紙: 71年、民社党西村栄一(委員長)が急死した際、新聞紙でカネを包んで、春日一幸(副委員長)の部屋へ入った。「民社党はカネがいるだろうから使ってくれ。ありあわせのものだけど」と言う田中に春日はいたく感謝していた。

通信社: 番になってすぐの中元に、松坂屋の背広仕立券が届いたんだ。オーダーしたことなどなかったし、生地は“英国製”とあったから驚いた。デスクに相談したら「仮に返してみろ、お前と付き合いが悪くなるぞ」と言う。後ろめたかったものの仕立てて着ていったら、みんな似たような新品の背広を着ているじゃない。当時で3万〜4万円、なかなか良いものだった。


TV: 今で言えば20万円以上ですよね。“かなり”良いものじゃないですか、先輩。


通信社: そうかもしれないね。舶来のウイスキーやブランデーは目白にずらっと並んでいて、「持ってけ」と言うのでたくさん貰った。当時で1万円は下らなかったな。私が一旦現場を離れる際に、まず佐藤(栄作)のところに挨拶に行くと、その場で20万円くれた。で、佐藤へ挨拶したことを田中に告げたらパッと顔色が変わり、同額を包んでくれたよ。


ブロック紙: 新潟に同行取材すると、一流料亭で饗応を受け、土産に新潟特産の着物用生地をくれたことがあった。妻まで買収しようという魂胆でしょうか。こちらも初孫の雄一郎君が生まれた機会を捉え、祝いを贈ったんですが、返礼として毛布が贈られてきた。


全国紙: 番小屋で寝そべっていたら、1日目から土産を持たされましてね。妙に軽くて、それこそ背広の仕立券のようでもあり、受け取るか否か、みな躊躇していたんだけど、誰かが開けるのを見たら水戸納豆。茨城が地元の橋本登美三郎(元官房長官)から貰ったもののお裾分けだった。


TV: 納豆と20万円とは提灯に釣鐘。記者にカネまで配って手にした首相の座ですが、在任886日では不完全燃焼だったでしょうね。


ブロック紙: 看板の日本列島改造が「狂乱物価」を煽り、田中を追い詰めた。あまりのストレスに口元が歪んでいたよ。「扇風機を当てていたらこうなった」と強がるんだ、季節は秋から冬に差しかかる頃なのに。


通信社: そして息の根を止めたのが、74年10月に発表された児玉隆也による『淋しき越山会の女王』。児玉は「彼女は、大井町の、窓を開けると銭湯の煙突の煙が流れこむ安アパートに、6畳一間を借りた。彼女は、ホステスになった」と書いた。彼女とは(佐藤)昭ちゃんのことだね。「児玉には参った。困ったよなぁ」と田中はしきりに嘆いていた。


全国紙: 「日中国交正常化」も相当なプレッシャーだった。右翼から剃刀の刃や弾丸を送るぞという脅迫状が山のように届いていた。


地方紙: 角さんは後に「表が日米であれば、日中関係は“裏安保”」と解説してくれました。「中国7億の民がソ連の防波堤となる。となれば米国が日本に軍備を強要することはなく、経済発展を推進できる」と。私が師事していたブーちゃんこと伊藤昌哉(政治評論家・池田首相元秘書官)に伝えたら、とても興奮していた。「本当に言ったのか」と。


通信社: 池田が大平に下命していたんだな。大平はそれを田中に伝え、自身は外相として支えたわけだ。

TV: 事はそれで収まらず、野党を巻き込んだ「二階堂擁立劇」が噴き出す。これを竹下(登・蔵相)と金丸(信・総務会長)が封じるのですが、田中派の若手は、自派から総理・総裁を出せないことに苛立ちを募らせ、84年末に秘密裡に会合を持つ。その集まりの後に小沢一郎は「おやじ(=角栄)はフレキシブルではなくなった。どんな権力者だって人の心に芽生えたものは抑えつけられない」とブツブツ私に語ったものです。これを察知し、面白くない角さんはウイスキーに頼り始める。

TV: 1月27日、目白を訪ねた竹下は「創政会」立ち上げの意向を伝える。3年経って竹下が振り返ってくれたのですが、「(明治の)太政官布告以来、県会議員(経験者)が総理になった例はない。お前は俺がもう一度やってからにしろ」、こう角さんは言ったと。で、後に引けぬと竹下は決断します。

TV: 27日は僕にとってとても苦い1日です。2年前に当選した直紀を囲む会が柳橋の料理屋でセットされていたのですが、待てど暮らせど来ない。当たり前ですよね、角さんが午後5時に倒れ、東京逓信病院に入院しているわけだから。けれど我々はそのことを知らない。9時くらいにお開きになり、顔を見せていたお付きの秘書を目白駅まで送っていくことになった。私邸前も通りましたが、大門は開いたままで電灯は煌々としていた。主人が戻っていないのを意味しているのですが、なぜかやり過ごしてしまった。


地方紙: 大失態でしたね。秘書が駅で降りた後、反対車線に渡るのがバックミラー越しに見えた。角さんが倒れたのを知っている彼は来た道を引き返し、目白の私邸に戻ろうとしたのでしょう。当時、金丸事務所へ12時に電話し、動きがないか確認するのが日課だったのでそうしたら、「何もない」という返事で、安心して3時まで酒を呑んだんです。


TV: それで5時のNHK


地方紙: そう。朝起きるのが辛いから、あるおばちゃんにラジオのニュースを聞いてもらうバイトをお願いしていたんです。彼女は電話で、「角栄が風邪で入院」と告げるんですが“風邪ならいいかな”と睡魔に身を任せた。今度は自分で6時のニュースを聞いたら、やはりそう言っている。一応、共に深酒した仲間に教えてやろうと電話し、うち1人から「風邪で入院するわけないだろ」と怒られて目が醒めた。


TV: 当時、山に近いところに住んでおり、雪のせいで始発が随分遅れた。気持ちだけがはやったなあ。


地方紙: NHKがなぜ察知できたかというと、あちらの記者が田中派重鎮の小沢辰男、郵政省の役人と麻雀をやっていた。角さんが入院した逓信病院は郵政省の管轄だからそこに連絡がきた……というわけなんですが、直紀を責めましたよ。「あなたは取材の機会を奪った。せめて今日はやめにしようと言ってくれればよかったのに」と。代わりに「真紀子の単独インタビュー」とか色々と提案したけど、尽(ことごと)くはねられました。

地方紙: そうですね。「人事を追うような記者は大成しない。勉強しろ」と口酸っぱく言われたけど、「とはいえ官房長官は誰ですか」と食い下がると、ヒントを書いたメモをわざと落としてくれたことがある。また、ロッキード裁判について聞いた時には、「(孫の)雄一郎が学校から帰ってくると泣いてる。『お前のじいちゃんは被告人だと言われ、体育館の後ろで砂を投げつけられた』と。俺は卸し金で背中をごしごしされても平気なんだが、こればかりは……」と吐露していた。


全国紙: ロッキードにしてもそうだけど、嫌なテーマでもちゃんと答えるし、とにかく頭が良い人だった。今の政治家とは全然違いますよ。産経にいた額賀(福志郎)は佐藤首相番をやっていたんですが、僕の書いた原稿を「ちょっと拝借」と自分の原稿にしたこともあった。そんな人物が田中派の流れを汲む派閥のボスだから何をか言わんやだよ。


地方紙: 額賀の先輩で、産経政治部から佐藤(首相)の首席秘書官に転じた楠田實が角さんを「ダーティーと言うけれど果たしてそうか。歴代首相の中では最もクリーンな総理だ。金権と言えば言うほど、ほくそ笑んでいる男たちがいる」と評していた。過去の首相の裏には常に右翼が黒子のように張り付き、彼らとの付き合いは闇だった。ロッキードの5億どころではない大金が動いていたと示唆しているのです。


全国紙: カネは派手に多方面にばら撒いたけど、椎名悦三郎(元外相)によれば「集めはしたが角栄のところは素通りしている」そうだ。


TV: 戦後の混乱期、エスタブリッシュメントが再形成過程にあり、自民党はまだ存在しなかった。そのタイミングで議員バッジをつけたのが奏功し、角さんは政治の中枢に入り込むことができた。そのインナーの場で「岸、池田、佐藤……誰の力も借りずにトップになったのは俺だけ」と胸を張ったし、当選年次に重きを置いていたから年長の福田赳夫でも“福田君”と呼んだ。軍隊と同じで「星の数でものを言う」ことにプライドを持っていた。例えば徳洲会徳田虎雄も角さんと同じく“外からの突入”を試みたタイプだけれど、跳ね返されてしまったのとは対照的です。

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