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長年、ビジネスの世界にいてわかったことは、ビジネスマンとして優れている人に東西問わず例外なく共通しているのは、謙虚で常に何かを学んでいることだ。

 例えば、投資や企業買収のビジネスといえば、企業のバランスシートやキャッシュフローなどの財務指標、さらには将来の市場の成長性や金利などのマクロの数字を分析し、それをもとに、冷徹にコスト削減や事業再構築(リストラ)を進め、時には、生き馬の目を抜くかのようなあこぎなビジネスというイメージを持っている人も少なくはない。


 だが実は、企業買収などでも投資の成功の決め手になるのは、財務データによる分析ではなく、投資先の経営者の「人間力」の見極めなのだ。


 財務データや数字の分析は、だいたいどこがやっても同じような結論になることが多い。差別化できるのは、それらの数字をもとに新たな経営計画などを、社員や部下を束ねて実行していくことができる経営者や経営幹部の力だからだ。


 投資先企業の社長で、私がこれまで最も信頼できた人は、実に相当後で分かったことだが、高卒だった。もう一人は、大卒なのかどこの大学を出ているのか未だ知らないが、大卒であっても、いわゆる有名大学ではないことは確かだ。


 彼らは流行の経営手法に囚われず、冷静に市場の現状や将来と自社の立ち位置を把握し、実行可能な事業計画を立て、社員のモチベーションを高めることはすべてやり、間違いは素直に修正し、淡々と利益を稼ぎ出していた。


 またいろいろな書物を読んで、謙虚にさまざまなことを学ぼうとしていた。読書によって自分を客観視し、モノを動かす合理性とヒトを動かす情緒をしっかりと身に付けていた。学歴は全く関係がなかった。


 どんな大学を出ていても、社会人になって勉強を続けない人は、勉強し続けている人には絶対に勝てないのだ。

 欧米の優れた経営者に大学時代の専攻が歴史、哲学である人が少なからずいるのは、これら専攻が促す読書の習慣と無関係ではない。


 虚偽と欺瞞(ぎまん)に満ちた実社会(「新明解国語辞典」より定義引用)に出ると、いろんな思惑を持った、さまざまな立場の人と出会うし、ビジネスでは、そこに損得や打算が絡んでくる。


 社内で自分の主張を通そうとしたり、対外的に自社の利益を図ろうとしたりする時には、結局、それは自分と相手の理屈のぶつけ合いになる。同時に他人の情緒をどれだけ理解できるか、ということが、理屈のぶつけ合いを時に抜き差しならぬ事態にしてしまうこともあれば、何らかの妥協や譲歩の道を開くことにもなる。


 人間関係も、他人の情緒をどれだけ理解できるかで、決まってくる。


 筆者の読書経験で、ヒトを動かす情緒的配慮を身に付けるのなら、紫式部の「源氏物語」だ。


 いろいろな立場にある人(権力者、仕え人、上司、部下、夫、妻、親、子、友人、愛人、敵、味方)のいろいろな気持ち(愛情、虚栄心、嫉妬、怨嗟、後悔)を、これほど面白おかしく解説してくれているということでは、これ以上の本はない。

 一方で、理屈というのは原理原則のことだ。


 何か物事を進めようとする際には、皆が、自分に都合のいい原理原則を持ち出してくるのは世の常だ。いわゆる英語で「チェリーピッキング」と表現される「いいとこ取り」だ。


 その理屈が状況や問題解決に合っていたらいいが、そうでない場合には事態がはおかしなことになってしまう。

 若い人にあえて、まずこの1冊をと薦めるとしたら、アダム・スミスの「道徳感情論」(1759年)だ。


 スミスといえば、自由競争や市場主義を唱えた原典とも言われる「国富論」(1776年)が有名だが、グラスゴー大学の道徳哲学教授だったスミスにとって、亡くなる1790年まで改定を続けた「道徳感情論」は、ライフワークそのものだ。


 筆者が講義している京都大学大学院でも、学生に推奨図書として経済学、経営学と直接には関係しない、この本をまず薦めている。


 もちろん、この1冊を読めば、世の中の原理原則が概ね分かるというわけではないし、そもそもそんな本は存在しない。


 しかし、この本を読めば、判断に困ったとき、困難にぶつかったとき、依って立つべきなんらかの原理原則が浮かび上がってくることがある。


 例えば、スミスがこの著作で説き続けている行動規範として、自身の行いが「公平な観察者」(Impartial Spectator)の目に耐え得るかというのがある。


 私利私欲のために都合のいい原理原則を並べ立てて、利己的な主張をしていなかをチェックするには、自身の心の中に中立な第三者を立て、その人がどう思うか考えてみよというものだ。


 客観的な第三者の「共感」を得られないのであれば、間違っているということだ。逆に、「共感」は得られると思うなら、自信をもってやりなさいということでもある。

 この時に学んだのは、形式的なルールに惑わされるのでなく、本質的な原理原則に従い、実態を広く関係者と共有できれば怖いものはないということだ。

道徳感情論」の原理原則が優れているのは、それが特定の地域、時代にだけ当てはまるのではなく、古今東西変わらぬ人々の普遍的情緒にも基づいているからだ。


 原理原則が表象する合理性と情緒とは相反するように思われるかもしれないが、本来、この二つは相互補完するように絡み合っている。そのような原理原則が実社会では役立つ。


 最後に、これから英語も上達したいと思う新社会人には、「道徳感情論」を英語の原書“The Theory of Moral Sentiments”で読むことをぜひ、勧めたい。


 日本語訳が悪いというわけではないが、原書の方が、意味がしみじみと分かりやすい。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180510#1525948680