https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com


 政変で勝ち組の内務卿・大久保利通は、殖産興業―工業化路線を推進するためにも、士族たちの反発を和らげ、政権の安定を図る必要がありました。


 大久保は74年2月に台湾出兵を進め、同4月に島津久光左大臣に任命します。これらは外征に息巻く士族たちや、不平士族を煽動しかねない久光への宥和策でした。


 ところが、久光は、政府の開化政策をことごとく否定する建言書を太政大臣三条実美と右大臣・岩倉具視に提出し、大久保の罷免まで要求します。久光を政府内に取り込む策は裏目に出ました。


 そこで大久保は、台湾出兵に反対して参議を辞めた木戸孝允の政府復帰を図ります。根回しに動いたのは、伊藤博文でした。


 木戸は、岩倉使節団から一足早く帰国した直後の73年7月、「憲法制定の建言書」を太政官に提出、五箇条の御誓文の中身を拡充して「政規」を確立するよう求めていました。


 大久保も同年11月、「君民共治」(立憲君主制を採用して、「君権」と「民権」の範囲を「国憲」(憲法)で定める「立憲政体に関する意見書」をまとめていました。


 これらの「立憲政体」論が、両者を接近させます。


 大久保は75(明治8)年1月、大阪で木戸と会談して参議への復帰を要請、木戸は憲法や地方議会の開設など制度改革を条件に受諾します。


 他方、井上馨はこれに先立ち、木戸と、民撰議院設立を唱える板垣退助との会談をセットし、両者は今後の連携を確認しました。


 2月11日には、大阪で木戸・大久保・板垣の3者が会談し、制度改革の推進で一致(大阪会議)。3月8日に木戸が、同12日に板垣がそれぞれ参議に任命されます。