<西郷隆盛と大久保利通>第8回〜「西南戦争」への助走https://t.co/L0DSiXYZbD#カルチャー
— 読売新聞YOL (@Yomiuri_Online) 2018年5月15日
政変で勝ち組の内務卿・大久保利通は、殖産興業―工業化路線を推進するためにも、士族たちの反発を和らげ、政権の安定を図る必要がありました。
大久保は74年2月に台湾出兵を進め、同4月に島津久光を左大臣に任命します。これらは外征に息巻く士族たちや、不平士族を煽動しかねない久光への宥和策でした。
ところが、久光は、政府の開化政策をことごとく否定する建言書を太政大臣・三条実美と右大臣・岩倉具視に提出し、大久保の罷免まで要求します。久光を政府内に取り込む策は裏目に出ました。
そこで大久保は、台湾出兵に反対して参議を辞めた木戸孝允の政府復帰を図ります。根回しに動いたのは、伊藤博文でした。
木戸は、岩倉使節団から一足早く帰国した直後の73年7月、「憲法制定の建言書」を太政官に提出、五箇条の御誓文の中身を拡充して「政規」を確立するよう求めていました。
大久保も同年11月、「君民共治」(立憲君主制)を採用して、「君権」と「民権」の範囲を「国憲」(憲法)で定める「立憲政体に関する意見書」をまとめていました。
これらの「立憲政体」論が、両者を接近させます。
大久保は75(明治8)年1月、大阪で木戸と会談して参議への復帰を要請、木戸は憲法や地方議会の開設など制度改革を条件に受諾します。
他方、井上馨はこれに先立ち、木戸と、民撰議院設立を唱える板垣退助との会談をセットし、両者は今後の連携を確認しました。
2月11日には、大阪で木戸・大久保・板垣の3者が会談し、制度改革の推進で一致(大阪会議)。3月8日に木戸が、同12日に板垣がそれぞれ参議に任命されます。