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皇太子殿下は2005年の誕生日会見で『子どもが育つ魔法の言葉』などの著書がある米国の家庭教育学者、ドロシー・ロー・ノルトの詩を紹介されました。《批判ばかりされた子どもは非難することをおぼえる(中略)しかし、激励をうけた子どもは自信をおぼえる(中略)賞賛をうけた子どもは評価することをおぼえる(中略)可愛がられ抱きしめられた子どもは世界中の愛情を感じとることをおぼえる》というものでした。

皇太子さまも雅子さまも「普通の子育て」への憧れがあるようです。

雅子さまには現代的な「自分の権利を主張する」というプリンシプルを強く感じます。働く女性のスタンダードな意識ですよね。

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 一方、公私の別に厳しい明治天皇が川村の家を訪れることはなかった。すると川村はある時、両親王を連れて沼津駅へ行った。明治天皇お召し列車が通るからである。


 明治35年11月19日《午前、(裕仁親王は)雍仁親王と共に沼津停車場にお成りになり、熊本県下における陸軍特別大演習の御統監より還幸(かんこう)途次の天皇に車中において御拝顔になる》(同37頁)


 この時の様子を、両親王の保母となる足立孝が戦後に回想している。


 「明治大帝が汽車で沼津をお通り遊ばすので、川村さんが皇孫さまについて停車場へおいでになったそうです。すると明治大帝はもともとお言葉の少ない方ですので、ただ、にこにこされただけでお言葉も何もないものですから、川村さんがとても心配されたんです。ところが、大帝はあとで女官に『きょうはうれしかったよ。皇孫を川村が駅まで連れて来てくれて、元気なところに会ってうれしかった』って仰せになりましたそうです」


 明治天皇もまた、両親王がかわいくて仕方なかったのだ。

 川村の死後、親王養育の重責を任されたのは、東宮侍従長の木戸孝正だ。安政4(1857)年生まれの当時46歳。維新の元勲、木戸孝允桂小五郎)の甥(おい)で、木戸家の家督を相続し、明治22年から宮内省に出仕していた。なお、裕仁親王より2年早く生まれた長男の幸一はのちに昭和天皇の側近中の側近となり、終戦の聖断に向けて奔走することになる。

 11月9日、両親王は川村邸を引き払い、木戸が常駐する東宮御所の敷地内に移った。親王の養育は臣下があたるという慣例上、父母の皇太子・同妃と一つ屋根の下で暮らすわけではないが、両親王が起居することになった新造の皇孫仮御殿は東宮御所と庭続きで、皇太子・同妃と接する機会が格段に多くなる。


 だが、そのことを大きく報じた新聞記事はない。当時の紙面が、国家最大の非常事態で埋め尽くされていたからだ。


 日露戦争である。


 この時、満州では、のちに裕仁親王の帝王教育に深くかかわる第3軍司令官乃木希典の指揮の下、旅順要塞への総攻撃が行われようとしていた−−。