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第二十五回「生かされた命」|NHK大河ドラマ『西郷どん』


 戦争が終わると、西郷と木戸はすでになく、参議兼内務卿・大久保にとって、まさに独擅場でした。武力による政府転覆の時代は過ぎ去り、次代のリーダーと目された伊藤博文大隈重信らの政治指導力は、まだまだ大久保に及ばないとみられていました。

 しかし、大久保の運命はここで大きく暗転し、命を奪われることになります。


 78年5月14日午前8時すぎ、大久保は、太政官に出勤するため、自宅を馬車で出ました。東京(千代田区紀尾井町の清水谷にさしかったところで、石川県士族・島田一良ら6人の襲撃にあい、斬殺されます(紀尾井坂の変)。


 島田は、戊辰戦争に従軍したのち、陸軍大尉にまで進みましたが、帰郷して民権結社を設立。西南戦争では西郷軍に呼応し、同志と挙兵計画を立てましたが、実行に至らず、「権臣要撃」に転換しました。


 島田らが用意した「斬奸状」には、「公議を杜絶し、民権を抑圧し、以て政事を私する」など五つの「罪」が列挙されていました。

 西郷は、当時の知識人からも存在が注目され、敬愛されていました。


 その一人、福沢諭吉は、西郷死去の報を受け、『丁丑公論』を一気に書き上げます。


 緒言(まえがき)で福沢は、「政府の専制咎むべからず」といえども、これを「放頓(放置)」すれば際限がなく、これを防ぐの術は「抵抗の精神」あるのみと強調します。


 そのうえで、西郷の武力行使には賛同できないものの、「その精神に至ては、間然すべきものなし(少しも非難すべき点がない)」と、政府におもねらない抵抗の精神をたたえます。さらに返す刀で、維新の際は「勲功第一等」と持ち上げておきながら、一転して西郷を「古今無類の賊臣」と罵倒している新聞の豹変ぶりを痛烈に批判しました。 


 福沢は、西郷の決起は「立国の大本たる天下の道徳品行を害したるものにあらず」と重ねて弁護し、政府は、「天下の人物」である西郷を死地に陥れただけでなく、「これを殺したる者というべし」と、激越な調子で締めくくりました。


 この論説は、当時の言論弾圧を恐れてか公表がはばかられ、1901年になって「時事新報」に連載されました。同年5月、痩せ我慢を忘れて新政府に出仕したとして、勝海舟榎本武揚の出処進退を批判した『痩我慢の説』との合本で刊行されます。


 西郷と福沢は面識こそありませんでした。だが、西郷は福沢が著した『文明論之概略』(1875年刊)を読み、周辺に勧めていました。西郷は、ドメスティック(国内専門)な守旧派とみられがちですが、実際は、国際情勢や西欧社会にも通じた人だったようです。

<道は天地自然の道なるゆゑ(え)、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ>


 (訳文=人が踏み行うべき道は、天から与えられた道理であって、上に天があり、下に地があるように、当たり前の道理であるから、学問の道は天を敬い人を愛することを目的として、身を修め、つねに己に克つことに努めなければならぬ)


 <人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し>


 (訳文=狭量な人間世界にこだわるのではなく、広大無辺の天を相手にしなさい。天の示す道を実現すべく全精力・精神を傾け、人を咎めたりせず、自分に真の心が不足していることを認識すべきなのだ)

 内村は『代表的日本人』で、西郷隆盛上杉鷹山二宮尊徳中江藤樹日蓮上人にんの5人を挙げています。


 この中で内村は、西郷隆盛について、「『敬天愛人』の言葉が西郷の人生観をよく要約しています。それはまさに知の最高極地であり、反対の無知は自己愛であります」「『正義のひろく行われること』が西郷の文明の定義でした。西郷にとり『正義』ほど天下に大事なものはありません」――と書いています。

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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180613#1528886404