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改革案では、国政選挙の公約の進捗(しんちょく)状況や政府の進める政策の効果などを検証する「評価委員会」を新たに設けて、政策の立案に役立てるとしています。


また、分野ごとに設けられた部会は会員制とし、部会長や副部会長などの幹部は出席を義務づけ、政策に精通した議員の養成にあたるとともに、政治家どうしの議論を活性化させるため、各省庁の副大臣政務官政務調査会の会合へ積極的に出席するよう促すなどとしています。


さらに、業務を効率化するため、ITを活用し、ペーパーレス化を進めることも盛り込んでいます。


党内では、政策決定に党の意見が十分に反映されないなどと不満もくすぶっていて、自民党としては、政務調査会の機能を強化することで政府に対する発言力を高めたい考えです。

田中里沙 - Wikipedia


 鴻池家の祖は、戦国時代の武将で尼子十勇士の一人、山中鹿介幸盛(講談では鹿之介)といわれる。教科書に登場しないため、今でこそ知名度はあまり高くないが、かつては、三日月に向って「我に七難八苦を与えたまえ」と祈った話とともに、知らぬ人はいない講談のヒーローだった。


 鹿介は山陰・山陽で11カ国を支配した戦国大名・尼子氏の重臣で、主家が滅んだ後も、京都に逃れて尼子家再興に執念を燃やし続けた武将である。しかし、毛利方に敗れて捕らえられ、尼子家再興を果たせないまま殺された。


 後に残された9歳の長男新六(幸元)は、現在の伊丹市鴻池で大叔父に育てられ、地元の名産だった濁り酒の行商を始めるようになった。やがて清酒醸造に成功すると、鴻池屋と号して大坂に店を構え、さらに伊丹や池田の銘酒を江戸に運ぶ海運業にも進出した。こうして、鴻池家繁栄の基礎を築いたのである。新六に8男2女があり、豪商となったのは、両替商として名をなした八男の善右衛門の末裔(まつえい)である。

 鴻池家は新田の開発も手がけた。JR学研都市線に鴻池新田という駅(大阪府東大阪市)がある。この周辺は三代目・善右衛門が開発した場所である。江戸時代初期、鴻池家は現在の奈良県から大阪湾に流れる大和川の付け替え工事で広大な新田を開拓した。

 明治維新後の近代化の波には乗り遅れ、大阪を中心とした地方財閥にとどまったが、そのけた外れの財力の一端を「堀幸清回想録」からうかがうことができる。

 なお、鴻池財閥の中心だった鴻池銀行はやがて三和銀行となり、現在は統合で三菱UFJ銀行となっている。


総務省が、ことし1月1日現在の住民基本台帳を基にまとめた国内の日本人の人口は、1億2520万9603人で、平成21年をピークに9年連続で減少しました。


去年から37万4055人減って、減少した数も昭和43年の調査開始以降最も多くなり、4年連続で最多を更新しました。


一方、去年1年間の出生数は94万8396人で、2年続けて100万人を割り、昭和54年度の調査開始以降最も少なくなりました。


都道府県別に見ると、人口が増えたのは、東京、埼玉、神奈川、沖縄、千葉、愛知の6つの都県だけで、41の道府県では減りました。


東京はおよそ7万人増えて1311万人余りと22年連続の増加で、東京一極集中がさらに進んだ形になりました。


北海道はおよそ3万4800人減って、減少数も6年続けて全国で最も多くなりました。


市区町村別に見ると、最も増えたのは福岡市のおよそ1万1000人で、最も減ったのも、同じ福岡県の北九州市のおよそ6000人でした。


一方、3か月を超える在留資格などを持ち、住民票を届け出ている外国人は、長崎県を除く46の都道府県で増えて249万人余りで、5年前の調査開始以降最も多くなりました。