https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com


私は実現性のある道として四つの可能性を考えるのである。(1)先進帝国主義の歩んだ道(2)帝国主義的道義国家(3)自由民権国家(4)江戸期の幕藩体制を連邦制国家に変える。

(1)が実際の歴史、つまり可視化されている。

 (2)の帝国主義的道義国家とは、先進帝国主義国家はすでに200年余の歴史を持ち、その植民地支配を変化させている。つまり自らは市民社会を構築している。これに対し、日本は非圧迫民族や残忍な帝国主義的支配を断ち切る道を選択するのである。西欧の帝国主義国家のように歩みながらも自国エゴの次元を超えるのである。私がここでいう帝国主義の意味は、レーニンのいう帝国主義論ではない。大英百科事典やフランスの事典ラルースなどが定義している弱小の国を軍事的に支配し、資源を収奪、文化を解体、人権を蹂躙(じゅうりん)する状態を指す。日本は軍事的に先進国と対峙(たいじ)しつつ、その権益の解放を目指すのだ。そんなことが可能か。


 私は不可能だったとは思わない。明治5年のマリア・ルス号の清国人奴隷の解放時に、明治新政府が示した矜持(きょうじ)の延長線上にそのような国家はあった。孫文辛亥革命に協力した日本人志士たち(たとえば宮崎滔天(とうてん)や山田良政など)もそのような国家つくりを目指したと言っていいだろう。しかし、この道は大正時代の大川周明らの国家主義運動に収斂(しゅうれん)した形になったと見れば、実際はかなり困難な選択肢だったと言えるのではないかとも思う。


 大正期、昭和期の国家改造運動がなぜ軍事主導体制の補完の役割を果たしたのか、そのことを見ていくと、アジア主義や東亜の解放に現実味を与える理論が曖昧だったためと気づかされるのだ。


 かつて太平洋戦争の開戦詔書に、なぜ我々の力は弱いにしても世界の先進帝国主義の犠牲になっている国々の側に立つとの一節を入れなかったのかと、この案を最初書いた軍官僚にただしたことがある。「君、日本にそんな力があると思うか」との答えを得た。戦後になって日本が東亜の独立のために戦ったとの論があるが、あと知恵の最たるものだろう。


 (3)の自由民権国家の可能性は、明治初年代や10年代には僅かとはいえ存在した。征韓論で下野した西郷隆盛板垣退助後藤象二郎副島種臣らは、それぞれ自らの信じる道を歩むのだが、明治10年の西南戦争には不平士族のみならず自由民権の一派も加わっている。板垣の立志社、そして愛国社と続く運動は西日本一帯に自由民権運動そのものの広がりを示している。明治10年代半ばには各地で争乱があった。こうした運動の内実を検証すると、植木枝盛憲法私案を見てもわかる通りかなりの先進性がある。国民の人権についても広範囲に認めているのだ。山県有朋が軍内に影響が及ぶのをおそれたのも当然である。


 この系譜は大正期の吉野作造による民本主義に通じているし、戦後民主主義の支えになっているように思う。


 そして(4)である。私は江戸時代の幕藩体制は連邦制国家だと思う。幕府に代わる中央政府は、有力藩の30から40をアメリカと同様の州とし、連邦制国家を作るべきだったと思う。何しろ江戸時代は270年近くただの一回も対外戦争を行っていない。武術を人間錬磨の手段に変えたのである。そのために、抑制された文化や規範がこの国の中心軸となった。それを生かしての近代国家像が成り立ったのではないか。つまり明治新政府が地方政権を尊重して連邦制をとれば、日本の歴史はもう少し現実とは異なったものになり得たであろう。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180624#1529837296
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180613#1528886404自由民権運動