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 私がここで見ようとするのは、近世庶民の人間的な自立への要求がどのような言語をもって語られていったかである。それは容易くいわれる言語ではない。「心ノ工夫」という精神の苦闘を経ていい出される言語である。梅岩たちが践まざるをえなかったこの内面のプロセスに思い入ることなくその言語を見るものは、ただそこに分際に安んぜよという体制従属の意をしか読まないだろう。

 現に一定の社会的諸条件に置かれている自己の存在を、自然的諸事物と同様に天命によってかくあるととらえるためには、自己を無にして自然と同化する内的プロセスを必要とする。梅岩のいう「心ノ工夫」である。ここに一種の仏教的な覚醒が導入される。

覚醒の境地においては、我は天に外ならない。そして主体の能動性は、自己という意識を否定することによって、天地自然と一体化する存在直観に凝集されねばならない。

 私心私欲として否定される「人我」も、自己否定による天地自然との一体化に向かう能動性として立て通されねばならない。このような自己否定と再発見のプロセスによって、「今日我心ノアル所」を天命による自然必然的な存在として知るのである。

この目覚めに不可欠であるのは、「己レニ克ツトハ己レヲ忘レルコトナリ」という自己否定の内面的プロセスである。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180721#1532169941(恋愛結婚そのものには反対ではありません。しかし、紀子さま眞子さまに『目を覚まして』と思われていることでしょう。)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180721#1532169946(修身斉家治国平天下)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180721#1532169950(「かぶき的心情」とは何か)