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ノモンハン事件 - Wikipedia

辻政信 - Wikipedia

ノモンハン事件、太平洋戦争中のマレー作戦、ポートモレスビー作戦、ガダルカナル島の戦いなどを参謀として指導し、軍事作戦指導では「作戦の神様」と讃えられた。


その一方で、指揮系統を無視した現場での独善的な指導、部下への責任押し付け、自決の強要、戦後の戦犯追及からの逃亡などについて批判がある。

名古屋陸軍地方幼年学校に補欠で入学したが、首席で卒業した。

士官学校も首席で卒業しており、恩賜の銀時計を拝受している。

陸大卒業席次は3位(首席は天野正一、次席は島村矩康)であり、恩賜の軍刀を拝受した。

石原との出会いは辻にとって衝撃的だったようで、これ以降、生涯にわたる石原崇拝が始まり、辻は石原のことを「導師」と呼び人生最大の尊敬を向けることになる。9月、植田謙吉大将(関東軍司令官)と板垣征四郎中将(関東軍参謀長)の名で、「満州帝国協和会の根本精神」なる声明がパンフレットとして、石原信奉者であった辻の筆により出された。法令により直接に規定する根拠がないのに協和会を共産党のように政府をも指導する機関と規定し、さらに関東軍司令官を“哲人”と書き、大問題となった。

同年7月7日に発生した盧溝橋事件をきっかけとして中華民国国軍支那駐屯軍との間に戦闘が発生すると、辻は関東軍の参謀長・東條英機や高級参謀・片倉衷らに同調して戦線拡大を主張した。

1939年(昭和14年)4月に「満ソ国境紛争処理要綱」が布告された。これは作戦参謀の辻が起案し関東軍司令官・植田謙吉大将が通達したものであった。ここでは、当時国境線が明確に決定されていなかった地点において、現地司令官が自主的に国境線を認定し、衝突が発生した際には兵力の多寡に関わらず必勝を期すことが記されている。「侵さず侵しめざることを満州防衛の根本とする」、「万一侵されたら機を失せず膺懲する」などの記述を辻は拡大解釈し利用することになった。


5月11日、外蒙古満州国が共に領有を主張していたハルハ河東岸において、外蒙古軍と満州国警備隊との小規模な衝突が発生した。戦後の著書『ノモンハン』において辻は次のように記している。


幕僚中誰一人ノモンハンの地名を知っているものはいない。眼を皿のようにし、拡大鏡を以って、ハイラル南方外蒙との境界付近で、漸くノモンハンの地名をさがし出した。


この記述は『ノモンハン』の出版当時、紛争に深く関わった辻の無責任さをよく表しているとして強い批判の対象となった。


ハイラルに駐屯する第23師団は要綱に従って直ちに部隊を増派し、衝突は拡大した。

ノモンハン事件では第23師団捜索隊長井置栄一中佐や歩兵第七十二連隊長酒井美喜雄大佐など、辻によって自殺を強要された将校がいた。 辻は捕虜交換によって戻ってきた将校たちにも自殺を強要した。

ノモンハン事件の頃は北進論者であった辻であるが、この時期は南進論者に豹変していた。田々宮英太郎によると、1941年秋、日米首脳の直接会談によって戦争回避をはかった首相・近衛文麿の爆殺を計画したが、直接会談はおこなわれず、近衛内閣も退陣したため、爆殺計画は実行されなかった。この時期になると辻は石原の敵対者であった首相・東條英機に接近している。

太平洋戦争開戦後は、マレー作戦で第5師団の先頭に立って直接作戦指導を行い、敵軍戦車を奪取して敵軍陣地突入を行った。作戦参謀としての任務を放棄し第一線で命令系統を無視して指揮をとることに対して、第25軍司令官・山下奉文中将はマレー作戦中の日記において、「この男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也」と辻を厳しく批判している。

日本軍によってバターンから移動中の多くの米軍人が過度に疲労・重病化したために死亡したバターン死の行進に関連した辻の偽命令による虐殺は、戦後、逃亡した辻ではなく、人道主義者の本間雅晴司令官などが戦犯として処刑されることで、その責任を負うこととなった。

第18方面軍高級参謀としてバンコクにおいて終戦を迎えた辻は、8月14日に方面軍司令官の中村明人中将に「国家百年の為」潜伏することを願い出て、これを許可された。辻に対してはイギリスが戦犯容疑で追求を行うことが自明であったため、方面軍幕僚内でもこの決定に不満を持つものもいたが、中村司令官は辻を擁護し、イギリスの問い合わせに対しては「辻は敗戦の責任を感じ自殺するため離脱した。山中において一人命を断ったとみられる」と虚偽の説明をおこなった。

1950年(昭和25年)に辻は戦犯指定から逃れ、再び世に姿を現すことになった。

第23師団 (日本軍) - Wikipedia

小松原道太郎 - Wikipedia

1938年7月7日、第23師団長(- 1939年11月6日)に親補されハイラルに駐屯。「外蒙古兵700名が不法越境してきたので、師団の一部と満州軍で撃滅する」と打電しノモンハン事件のきっかけとなった。第23師団は壊滅的な打撃を受けた。


戦後に小松原は、犠牲者の多さに責任を感じ負傷兵や遺族の対応に心を尽くす一方で、第23師団捜索隊を指揮した井置栄一中佐に自殺を強要した。

ノモンハン事件小松原師団長スパイ? ( 軍事 ) - 海洋戦略研究 - Yahoo!ブログ

黒宮教授が米誌「スラブ軍事研究」12月号に発表した論文によると、小松原師団長は在モスクワ日本大使館付武官だった1927年、ソ連情報機関による「ハニートラップ」に引っ掛かり、ソ連の対日情報工作に協力するようになったとみられるという。
 ハルピン特務機関長時代には多くの機密情報がソ連側に漏洩した形跡があり、ロシア国立軍事公文書館などにそれを裏付けるファイルが保管されている。
 小松原師団長に対するハニートラップ説は、ロシアの研究者が唱えていたが、黒宮教授は、最近、この研究者にインタビューし、ソ連の元防諜機関員が情報源だったことを確かめた。
 これが真実であれば、無用な戦争をノモンハンで行い、敵に通じた指揮官が、部下将兵を死に追いやったことになる。

稲田正純 - Wikipedia

1975年(昭和50年)頃、ノモンハン事件を執筆しようと考えていた作家の司馬遼太郎が、文藝春秋半藤一利とともに稲田のもとを訪れた。事件当時の参謀本部作戦課長であった稲田は、「とにかく悪いのはみんな関東軍だ。現地が言う事を聞かなかったからあんなことになった」「国境線のことは関東軍に任せていた」というような話しかしない。その無責任な態度に司馬遼太郎は、「いくらなんでもあんまりじゃないか。こんな奴が作戦課長だったのかと、心底あきれた」と半藤に語ったという。

板垣征四郎 - Wikipedia

ノモンハン事件では参謀本部の不拡大方針を無視した関東軍参謀の辻政信の独走を「まあいいじゃないか」と黙認した。

植田謙吉 - Wikipedia

関東軍司令官兼駐満大使となり、在任中にノモンハン事件が発生。停戦後にその責めを負うかたちで1939年(昭和14年)12月に予備役編入となった。

服部卓四郎 - Wikipedia

1939年(昭和14年)5月に発生したノモンハン事件では、関東軍作戦主任参謀として作戦の積極拡大を作戦参謀の辻政信とともに主張したが、ソ連軍の大規模攻勢によって日本軍は大打撃を被った。 停戦後、関東軍の植田謙吉軍司令官、磯谷廉介参謀長らは現役を退くことになった一方、作戦の拡大を主張した卓四郎は陸軍歩兵学校付(辻は第11軍司令部付)という軽い処分で済んだのみならず、1940年(昭和15年)10月には参謀本部作戦課に作戦班長として栄転し、翌1941年(昭和16年)7月には作戦課長に就任した。


また同月には、辻政信参謀本部作戦課兵站班長に任命された。このとき卓四郎の上司にあたる参謀本部作戦部長は田中新一だった。


卓四郎の前に作戦課長を務めていた土居明夫大佐は、辻の呼び戻しを要求する当時作戦班長であった卓四郎と対立し、左遷されたとされている。開戦時の陸軍の作戦は多くが、辻―服部―田中のラインで形成されることになった(辻政信の項参照)。


1942年(昭和17年)8月に始まったガダルカナル島の戦いにおいては、現地を視察した際、「補給路が確立されつつあり、この点について問題なし」と虚偽の報告をした。

GHQ参謀第2部 (G2) 部長チャールズ・ウィロビーの下でマッカーサーによる太平洋戦争の戦史編纂に協力した。


戦史編纂業務が一段落した1948年末、ウィロビーは戦史調査部を中心に裏の業務として日本再軍備の研究を託し、再軍備研究のための「服部機関」が発足した。

1952年(昭和27年)10月31日付のCIA文書によると、児玉誉士夫の支援を受けた服部ら旧陸軍将校は、自由党の吉田首相が公職から追放された者や国粋主義者らに敵対的な姿勢を取っているとして、 同首相を暗殺して民主党鳩山一郎を首相に据える計画を立てていた。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180815#1534330407
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180815#1534330424

堀内光雄 - Wikipedia

義父・辻政信

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180526#1527331708(堀内詔子)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150328#1427538875紀子さまと彼の母親の詔子さんは“ママ友”です。)


http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180812#1534070093
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180812#1534070094
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180706#1530874218