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西郷菊次郎は、父の隆盛に従って西南戦争に参加したあと、明治政府に投降し、明治37年に2代目の京都市長に就任しました。


市長としては琵琶湖疏水や市電建設を進めるなど、京都市の発展の礎を築きましたが、当時の詳しい暮らしぶりは分かっていませんでした。


これについて京都市の歴史研究家、原田良子さんが府が保管していた明治41年の電話帳にあたる「京都電話番號聯合廣告簿」と呼ばれる資料を詳しく調べたところ、「聖護院町聖護院内京都市長西郷菊次郎」と記載されているのが見つかったということです。


京都市左京区にある聖護院は皇室ゆかりの寺で、当時、境内の西門付近に屋敷が建っていたことが知られていましたが、誰が住んでいたかは分かっていませんでした。


この屋敷に菊次郎が住んでいた可能性が高いということで、原田さんは「菊次郎は西南戦争で負傷して義足を使っていたので、義足の製作所が近かったことや市役所にも近いことなどからこの寺を選んだのではないか」と話しています。


また、西郷家の歴史に詳しい志學館大学の原口泉教授は「当時、格式の高い寺には誰でも住めたわけではない。菊次郎の功績や人柄が認められたからではないか。西郷家の歴史を知るうえで貴重な発見だ」と話しています。

西郷菊次郎は、西郷隆盛の長男で、万延2年(1861年)に今の奄美大島で生まれ、幼少時代を鹿児島で過ごしました。


明治10年、父・隆盛とともに西南戦争に従軍し、銃弾を受けて右足のひざから下を失う大けがをして、明治政府に投降しました。


その後、明治17年に外務省に入り、台湾北東部の知事を務めたあと、明治37年に2代目の京都市長に就任して琵琶湖疏水や市電の建設や上水道の整備などを手がけて京都の発展の礎を築きました。


明治44年結核のため鹿児島に帰り、夜間学校の開校などに当たりましたが、昭和3年、68歳でその生涯を閉じました。

京都市左京区にある聖護院は、寛治4年(1090年)に創建された白河上皇ゆかりの寺で、代々、皇族や身分の高い貴族が住職を務めた門跡寺院です。


現在の宮城泰年門主(86)は「菊次郎が住んでいたことは聞いたことがなかった。寺には古い日記などの古文書が手つかずのまま残されているので、今後、詳しく調査すれば、菊次郎について何か記録が残っている可能性がある」と話していました。