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 日清食品創業者の安藤百福と、その妻・仁子をモデルにしたNHK連続テレビ小説まんぷく』。好評のまま、物語は佳境を迎えつつあるが、終盤の山場は、安藤氏が無一文からチキンラーメンの開発で「一発逆転」を勝ち取るところだ。

 夜食でチキンラーメンを食べるのが楽しみだった。柔らかめに麺を茹でるのが好きで、醤油と鶏ダシと油の混ざった汁を、たっぷり麺に吸わせて、ずるずるっと啜り上げる。高校時代の受験勉強で夜中にお腹が空くと、鍋に水と麺を最初から入れてつくった。そうする方が麺がよくふやけるからだ。気が向けば、卵もひとつ落とした。

チキンラーメンにお世話になった日本の受験生は少なくないはずだ。私が付け焼き刃の受験勉強でギリギリ志望大学に合格できたのも、そのエネルギーに負うところが大きいのかもしれず、チキンラーメンには恩があるのだ。

 安藤氏の自伝『魔法のラーメン発明物語』(日経ビジネス人文庫)によれば、安藤氏は戦後まもまく、経営していた信用組合の破綻で無一文になった。そこで自宅に研究小屋を建て、即席麺の開発に取り組み、苦心の末、妻が天ぷらを揚げる姿にインスピレーションを受け、油で麺を揚げる「油熱乾燥法」にたどり着いた、という。安藤氏はこれを「発明」と述べている。私はこの説明にいささか納得ができないところがあるのだ。

 この雞絲麵は好評を博し、あっという間に台湾全土に広がった。チキンラーメンの「発明」より10年以上前のことだ。

 当時の日本は食糧難であった。日本には多くの台湾人が戦前から暮らしていた。台湾の家族から日本の家族へ、雞絲麵は盛んに船便で送られたという。

 台湾人の父と日本人の母との間に生まれたエッセイストの一青妙さんには、こんな記憶がある。父は台湾の5大財閥、顔一族の長男で、終戦直後から日本に留学していた。

「父は戦後すぐに日本に戻ってきていたのですが、日本の友人たちを家に集めて食事会をよくしていたそうです。父の死後、同級生の方から聞いたのは、顔さんの家にはいつも『ケーシーミー』があるので、楽しみにしていたということでした」

「ケーシーミー」とは雞絲麵の台湾語読みである。

 安藤氏の本によれば、チキンラーメンの発明は1958年ということになっている。しかし、一青さんのお父さんは、それよりずっと前の「終戦直後」に雞絲麵を日本で食べていたことになる。

 葉さんに、日本の安藤氏が1958年に油揚げの調理法を「発明した」と主張しているが、どう思うか尋ねてみた。葉さんが語った言葉は印象的だった。

「うちは大正時代から油で麺を揚げている。それは間違いない。自分はもう63歳。この仕事を50年間やってきた。それは本当のこと。あとはどうでもいいさ」

 そして、こう付け加えた。

「見人見智」

 これは、中国語の故事成語で「1つの物事には、その人の立場によって、異なる見方があるものだ」ということを意味している。

 確かにその通りだ。そして、私は私の見方として、チキンラーメンの源流は、この台湾南部にあることを確信した。安藤氏の「発明」よりずっと前に、彼の故郷の台湾南部で、油熱で麺を揚げて調理する方法が、広く普及していた。

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