正直「歴史から学べ」という言説の多くは、歴史に一定の法則があるという発想を内在している場合が多く、個人的には違和感を感じている。歴史は法則というより、その時その時の個々の状況と環境とそれまでの経緯で動くもので、学ぶとすればその非法則性について学ぶべきだなとも思う。
— まとめ管理人 (@1059kanri) 2019年1月28日
まじ名言。 https://t.co/00fWzibFaK
— Kan Kimura (@kankimura) 2019年1月28日
法則性を見出さないなら、それはもはや学問ではない。
法学で言うなら、具体的妥当性と法的安定性の両方を常に考え続けていく。
世界中の多くの大学で使われている国際政治学の定番教科書の最新版。東欧や中東の紛争,中国の台頭,北朝鮮の脅威など,国際紛争の引火点を理論と歴史の両面から説明する新たな章を加えた。
- 作者: ジョセフ・S.ナイジュニア,デイヴィッド・A.ウェルチ,田中明彦,村田晃嗣
- 出版社/メーカー: 有斐閣
- 発売日: 2017/04/24
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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「賢者は歴史に学ぶ」その理由(前編)https://t.co/2vAQ7qZRN2#深読み
— 読売新聞 YOL (@Yomiuri_Online) 2019年1月28日
――今は歴史関係の新書がベストセラーになるなど、ちょっとした歴史ブームです。私も今のニュースを昔の出来事と重ね合わせて分かることを紹介する記事(コラム)を書いていますが、出口さんは、歴史を学ぶ意味をどうお考えですか。
出口:「将来何が起こるかは誰にも分かりません。何かが起きた時にどう対応するか、教材は過去にしかありません。東日本大震災のような災害は、いずれまた起こるでしょう。その時に震災のことを勉強した人としなかった人、どちらが助かりやすいかは誰にでも分かる。歴史を学ぶ大切さは、これに尽きます。
ダーウィン(1809~82)の進化論の本質は「運と適応」がすべてということです。運を定義すれば「適当な時期に適当な場所にいること」。大地震が起きた時に高い丘の上にいるか、海辺にいるかで津波に遭うかどうかが決まり、生死が分かれる。将来何が起こるかは分からないのですから、「運」はどうしようもない面があります。しかし、人間を含めて地球上の生物は適応、つまり「何かが起こった時にどう対応するか」を重ねて進化してきたわけです。
ドイツの宰相ビスマルク(1815~98)が「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言ったのは、時間軸の話をしているのです。経験から学ぶだけでは、人生のどこかで震災が起こらなければ対応策が学べません。でも人類の歴史は5000年ありますから、時間軸を延ばせば様々な対応策を学ぶことができます。
古代中国、唐の第2代皇帝で名君といわれる太宗・李世民(598~649)は、リーダーが持つべき「3つの鏡*」のうちのひとつは「歴史の鏡」だと言っています。昔のリーダーは、歴史を学ばなければいけないことを知っていたのです。
*「3つの鏡」 李世民の言行録である中国の古典『貞観政要』があげるリーダーに必要な3条件のこと。リーダーには、自分の今の表情(状況)をチェックする「銅の鏡」、歴史を学ぶ「歴史の鏡」、部下の直言や諫言かんげんを聞き入れる「人の鏡」が不可欠と説く。
――ただ、現在と過去の出来事は、登場人物や時代背景はもちろん、政治や経済のシステムもまったく違います。民主主義の時代に起きていることを、封建主義の時代に起きた出来事と比較しても参考にならない、という声を聞くこともあります。
出口:そうでしょうか。民主主義は古代ギリシャから始まっています。イギリスの哲学者ホワイトヘッド(1861~1947)が「西洋哲学はプラトンの膨大な解釈の歴史にすぎない」と言ったように、考え方によっては古代ギリシャの哲学者、プラトン(紀元前427~紀元前347)によって課題は全部出そろっているわけです。
人間の脳は昔も今も大きく変わっていませんから、喜怒哀楽や経営判断、対応策に大きな違いはありません。何かが起きた時、昔の人はどう対応したのかを知っていれば、必ず今の出来事を読み解く参考になるはずです。
しかし、今の出来事の参考にするには、昔に本当に起きたこと、つまり正しい歴史を学ばなければなりません。エンターテインメントを得意とする小説家が書いた教訓めいた物語は参考になりませんから、歴史と物語は峻別しゅんべつしないといけないと思います。本当に起きたことを都合よくねじ曲げた安易な教訓や物語は、読む人には気持ちがいいかもしれませんが、学問としての歴史を学ばなければ実際の役には立たないのです。
――学問としての歴史、と言われると、とっつきにくく感じてしまいます。大河ドラマや時代劇など、出口さんの言う安易な教訓や物語を歴史を学ぶ入り口にする人は多いのではないですか。
出口:それは全然OKです。原泰久さんの『キングダム』という漫画がものすごい人気を博していますが、あの漫画がきっかけになって『新釈漢文大系 史記』(明治書院)を読んでいる若者が何人もいます。本当の歴史がどうだったか知りたくなったそうです。『キングダム』は漫画ですから、エンターテインメントだということが分かりやすく、学問との峻別もできます。
問題なのは、「歴史めいた物語」です。例をあげれば「司馬史観」のようなものですね。あまりに上手に書かれているので、本当の歴史と混同してしまう。悪しき典型例が「江戸しぐさ」です。江戸時代の古き良き風習とされて、今を生きる人の参考になると紹介されていますが、あれは、100%平成しぐさですからね。
面白おかしい陰謀論などがフェイクニュースの温床になるのです。世の中に流布した真実ではない物語については、学者がはっきり「ウソだ」と言わないといけないと思います。この点は呉座勇一さんが『陰謀の日本中世史』(角川新書)で鋭く指摘しています。
――出口さんは著書で「歴史に事実は一つしかない」と書いていますね。しかし、長年新聞記者をしていると、今起き
ている出来事でさえ、見る角度によって違うなと思うことがよくあります。歴史の本にも「諸説あり」という言葉がありますよね。過去の出来事は、本当に一つなのでしょうか。出口:歴史とは、今まで地球上に生きてきたすべての人間の出来事の総和ですから、きょうのこの対話も歴史になります。対話の内容を僕と丸山さんがそれぞれ記録に残すとすると、2つの記録は当事者が自ら残した信頼できる一次史料になります。しかし、重点の置き方や価値観の違いなどがありますから、2つの記録は絶対に同じにはなりません。ですが、そのことは出来事が2つあるということではありません。録音テープを再生すれば対話内容は1通りしかありませんよね。
歴史学というのは、今の例で言う、録音テープを発見する努力の積み重ねです。いろいろな解釈はあっていいのですが、解釈には数字、ファクト(事実)、ロジック(論理)という根拠が必要です。こういう文献があるから、こういうエピソードがあるから、こう見てもいいのではないかと、数字とファクトとロジックを使って議論しながらひとつの真実に近づいていく学問が歴史なのです。
解釈に思い込みが強く入っている人の主張は、えてして根拠がいい加減なので、議論していくうちに消えていきます。本当の専門家が史料を持ち寄って議論を重ねることで、真実は一定の幅に収れんしていくのです。
――新しい史料が見つかれば、せっかく収れんしても、またやり直さなくてはならなくなりますね。
出口:当然です。よく「出口さんの言っていることは中学校で習った歴史と違うんですが、ホンマですか」と聞かれますが、昔のことは変わらないというのは錯覚です。歴史学は古色蒼然そうぜんとした本をほこりを払って読む学問というイメージを持つ人は、歴史が何かをわかっていない。
中国では、大きな墓が発見され、墓から当時のことを記した竹簡や木簡が大量に出るたびに、歴史は大きく書き換えられています。例えば、「孫氏の兵法」で有名な孫氏は孫武と孫ピンの2人だったことが明らかになっています。教科書で誰もが一度は見た伝源頼朝像については、いくつもの新たな証拠が出されて、今やまともな学者で「あれは足利直義(1306~52)の像だ」というのを疑う人は皆無です。
――高野山成慶院の武田信玄(1521~73)の肖像画も、おそらく別人のものだろうという説が有力ですね。馬に乗っている有名な足利尊氏(1305~58)像も、尊氏ではないと言われています。しかし、頼朝像は「伝」の字はついてもまだ頼朝像として紹介されていますね。
出口:書き換えには時間がかかりますが、一定のタイムラグを置いて、伝頼朝像はいずれ教科書から消えると思います。新たな史料が見つかるたびに更新され、そのたびに真実に近づいていくという点では歴史は他の学問と全く同じです。更新されていかなかったら、それは学者がさぼっていると思った方がいいんです。
出口さんは、歴史を学ぶことの大切さと、その歴史は日々変わっていて、学び続けなければいけないと説く。では、最新の知見で何が、どう変わっているのか。対話は日本史研究の最前線へと移る。
――私も日本史を題材に記事を書いていて、昔と違うな、と思うことがよくあります。新史料の発見で根拠が変わったということもあるでしょうが、研究者を取り巻く史観も影響しているのではないでしょうか。
出口:歴史の出来事に対する価値観はその時その時の社会がつくるもので、それも変わっていきます。明治天皇は自分は北朝だと思っておられたそうですが、尊皇精神などを優先して南朝が正統とされたのは明治40年(1907)以降のことなんです。
古代史研究は、いまだに方法論からしておかしいと思います。『日本書紀』は持統天皇(645~703)と藤原不比等ふひと(659~720)が創作したもので、完成したのは奈良時代の720年です。中国の史書にある「倭わの五王*」は5世紀、卑弥呼にいたっては西暦260年ごろの話ですよ。まともな学者なら中国の同時代史料と考古学の話をベースに日本の古代史を研究して、参考程度に『日本書紀』や『古事記』を見るのが当たり前です。
*倭の五王 古代中国の歴史書に登場する讃・珍・済・興・武の5人の倭王のこと。5人の倭王は1世紀近くにわたり、主に南朝に朝貢していたとされる。
ところが『日本書紀』や『古事記』を一所懸命読み解いて、中国の史料とか考古学のデータを都合よく解釈して、5人の倭王が天皇の誰にあたるかとか、倭王武は雄略天皇(?~479?)だ、といった意味がない議論をしています。邪馬台国についても九州にあったか畿内にあったかの議論は、今の時点ではほとんど意味がない。決着を付けようとすれば、箸墓を掘るしかありません。邪馬台国という権力が日本にあったということが分かれば十分でしょう。
――日本で書かれた『日本書紀』や『古事記』を読み解かず、中国で書かれた『魏志倭人伝』を引き合いに出すのはおかしい、と言う人もいます。
出口:『日本書紀』や『古事記』が何よりも正しいというのは学問ではなく、宗教です。8世紀に書かれたもので、持統天皇や不比等が大幅に脚色しています。「どちらの方向に何里」といった邪馬台国の位置に関する中国の史書の記述は伝聞ですから正確とは言い切れませんが、多くの学者は『魏志倭人伝』の記述はほぼ正しいとみています。日本は中国にとっては海の向こうの小さな島で、伝え聞いた通りに客観的に書くはずです。ねつ造したり、ねじ曲げたりする必要性はどこにもありません。
――時の権力者が歴史をねじ曲げ、研究者を取り巻く史観も影響しているのではないでしょうか。
出口:権力者のプロパガンダによって歴史がねじ曲げられるのは、世界中であることです。中国の正史は正しい記述が多いとされていますが、それでも時代が変わる前の皇帝の事績はとても悪く書かれています。前権力が根こそぎ変わる「易姓革命」の国なので、前の権力が悪くなければ政権交代の正統性を説明できないからです。そういう弱味があるからこそ、それを踏まえつつ分析する学者の存在意義があるわけですし、だからこそ歴史は学問として面白いんです。
明治以降の皇国史観*が歴史をねじ曲げたことは確かで、和気清麻呂わけのきよまろ(733~799)や楠正成(1294?~1336)が忠臣とされ、足利尊氏(1305~58)は悪人とされました。実は明治天皇(1852~1912)は自分は北朝だと思っておられたようです。尊皇精神を宣伝するには南朝を正統とする方がいいという理由で、明治40年(1907)以降、南朝が正統とされたのです。
*皇国史観 日本の歴史は天皇を中心に形成されてきたとする国史のこと。南北朝時代は南朝を正統とした。和気清麻呂は皇位を狙った道鏡(700?~772)を排し、楠正成は南北朝時代に南朝を支え、足利尊氏は建武の新政を崩壊させて北朝をたてた中心人物だった。
不幸なことに、戦後は皇国史観の反動で、一転してマルクス史観*の階級闘争論が優勢になり、あまりにも型にはめた議論が見られるようになりました。貴族の次は武士の時代だとイデオロギーが後付けをして、「平清盛(1118~81)が貴族化してぜいたくをしたから平氏は滅んだ。代わって源頼朝(1147~99)が臥薪嘗胆がしんしょうたんの末に平氏を倒し、武家の棟梁とうりょうたる将軍になって幕府を開いた」ということになったんですね。
*マルクス史観 19世紀にカール・マルクス(1818~83)が唱えた歴史観。唯物史観とも呼ばれる。社会は無階級社会から階級社会へと生産力の発展に応じて移行していくとする。戦後の日本の歴史学者に強い影響を与え、多くの歴史教科書等に反映された。
「日新」は、日ごとに新しくなる。また新しくする。
『易』の繋辞伝に「日新是れを盛徳という」。
これは、日一日ごとにわが学術を新たに進歩せしめることを盛徳というのである。