「平成」以外の元号案のメモ公開 「修文・普徳・靖和」など #nhk_news https://t.co/1rIke1sU1B
— NHKニュース (@nhk_news) 2019年3月1日
このメモは中国文学が専門で、平成6年に90歳で亡くなった九州大学の目加田誠名誉教授が書き残した9枚の原稿用紙や便箋で、福岡県大野城市の自宅にあった遺品のなかから見つかりました。
メモからは昭和の次の元号を選ぶ際に、目加田さんが考案し、政府が最終段階で検討した3つの原案のうちの1つとされる「修文」(しゅうぶん)、それに「普徳」(ふとく)や「靖和」(せいわ)など、少なくとも20に上る元号の案が読み取れます。
昭和の次の元号の原案の1つを考案したとされる九州大学の目加田誠名誉教授のメモには、読み解くことができたものだけで、合わせて20の元号案が書き残されていました。
このうち「修文」は、目加田氏が政府に提出したとされる原案で、「平成」や「正化」(せいか)とともに、政府が最終段階で検討したとみられています。
メモにはこのほか、
▽「普徳」(ふとく)
▽「靖之」(せいし)
▽「靖和」(せいわ)
▽「天昌」(てんしょう)
▽「大猷」(たいゆう)
▽「允徳」(いんとく)
▽「修和」(しゅうわ)
▽「恭明」(きょうめい)
▽「敬治」(けいじ)
▽「純熙」(じゅんき)
▽「長道」(ちょうどう)
▽「天休」(てんきゅう)
▽「和平」(わへい)
▽「成孚」(せいふ)
▽「永孚」(えいふ)
▽「大明」(たいめい)
▽「成文」(せいぶん)
▽「大有」(たいゆう)
▽「大成」(たいせい)の案が書かれていました。
昭和天皇の崩御の1年前に秘かに集められた新元号選定に関する有識者懇談会。歴史上初めて民間人が起用された会議の内容はすべて極秘扱い。議事録も存在せず概要も公表されなかった会議の実像が今、明かされるhttps://t.co/x4X1LorAYa
— NHKニュース (@nhk_news) 2019年3月1日
新元号の発表まで、残すところ1か月。平成の時代は、その1か月後に幕を閉じる。
こうした状況を特別な思いを抱いて迎えようとする人がいる。
元早稲田大学総長の西原春夫さんだ。
西原さんは30年前、有識者からなる「元号に関する懇談会」に出席し、民間人として初めて元号の選定に関わった。
懇談会の議事録は残されていないとされ、内容は公開されていない。
<元号選定手続>
(1)総理大臣が考案者を選び、元号の候補を典拠(出典)とともに提出してもらう。
(2)官房長官が、候補の中から数個を原案として選ぶ。
(3)その後、各界の有識者からなる「元号に関する懇談会」や衆参両院の正副議長の意見を聞き、全閣僚会議で協議する。
(4)そして閣議で、新元号に改める政令を決定する。
政府が元号の法的根拠となる元号法を昭和54年に制定した当時、懇談会で有識者から意見を聞くことは手順に含まれていなかった。
しかし、平成への改元の際、当時の竹下内閣の内部で「国民の声を聞く形を取るべきだ」という声が上がり、平成が決定された当日の閣議に先立って開かれた臨時閣議で手順が改められ、懇談会が設置されることが決まった。
その顔ぶれは、NHKの池田芳蔵会長、物理学を専門とする東京大学の久保亮五教授、日本新聞協会の小林与三次会長、日本民間放送連盟の中川順会長。
インド哲学を専門とする東京大学の中村元名誉教授、日本私立大学団体連合会の西原春夫会長、国連婦人の地位委員会の縫田曄子委員、国立大学協会の森亘会長の合わせて8人だった。
西原さんは、早稲田大学の元総長で当時、日本私立大学団体連合会の会長を務めていた。現在、90歳になる。
政府の担当者から「懇談会の内容を口外しないように」と強く言われたため、これまで議論の内容などについて語ってこなかった。
しかし、「平成のさなかに内容を明らかにすれば、何かよくないことが起きた時、別の元号にすればよかったと言われるかもしれない。ただ新たな時代に変わろうとしている今、何かの役に立てるのなら話してもよい」とインタビューに応じ、懇談会の内容を初めて語ってくれた。
現在、懇談会の準備に携わる職員は「当時、懇談会の準備は極秘のうちに進められたせいか、詳細の記録が残っていない」とこぼした。
平成への改元は、昭和天皇の崩御が前提となるため、政府は準備作業を極秘としていた。昭和天皇が亡くなられた後、懇談会の設置が初めて公にされ、そのメンバーの陣容は当日の午後、有識者が官邸に入る際に明らかになった。
では準備はいつ始められたのか。
西原さんによると、昭和天皇が亡くなられる1年近く前の昭和63年2月、政府の関係者が、入学試験期間中のために閉鎖されていた大学のキャンパスを訪ねてきたという。
「学内立ち入り禁止という状況の中で、小渕官房長官に仕えていた古川貞二郎さん(後の内閣官房副長官)がわざわざ大学にお見えになった。『すべてを秘密にしてほしい』『委嘱されたことも秘密にしてほしい』と言われた。当時の手帳を見てみると、ふだんはいろんなことを書くのに、話の内容もほとんど書いていない」
「家族にも秘密にするように」との約束を守るため、家族で出かける際、気付かれないように、かばんの中にスーツやネクタイをしのばせていたこともあったという。いつでも官邸に駆けつけることができるようにだ。
昭和64年1月7日午前6時33分、昭和天皇が亡くなられた。
この瞬間から、極秘に進められてきた改元の手続きが一気に進んでいく。当日早朝、西原さんのもとに、政府関係者から「午後0時半ごろまでに総理大臣官邸に来てほしい」と電話がかかってきた。
西原さんはこの時初めて、家族にみずからが元号の選定に関わることを告げたという。「昭和天皇の逝去を大変悼む気持ちとともに、『きょうは大変な1日になる』という緊張感が高まったことを覚えている」と当時を振り返った。
西原さんは、気持ちを落ち着かせるため、いったん大学に向かい、そこから総理大臣官邸に向かった。
NHKに残る当時のニュース映像を見ると、緊張した面持ちの西原さんが、記者からの質問を避けるように足早に官邸玄関から入っていく様子が映されている。
西原さんらは、事前に他のメンバーが誰かは知らされておらず、部屋に入って初めて、顔ぶれを知ったという。
「皆、各界の一流の方で場慣れはしているが、非常に厳粛かつ静粛で、緊張した雰囲気だった。私は昭和3年生まれで当時60歳。まさに昭和という時代の子が、その昭和の元号に、みずから幕を閉じる役割を担うのか、という感慨があった」
顔見知りもいたが、会議が始まるまでの間、雑談をするような雰囲気ではなかったという。
議事録は存在しないとされ、概要も公表されていない懇談会は、どのように進められたのか。西原さんなどによると、茶色と白色の2種類の封筒がおのおのが見られるよう机の上に置かれ、茶色の封筒には元号選定の手続きなどが書かれた紙が、白色の封筒の中には「平成」「修文」「正化」と新元号の3つの案が書かれた紙が入っていた。
「どのように書かれていたのか、はっきりと覚えていないが、平成がいちばん最初に書かれていた記憶がある。政府側の第1候補なのかなという印象を持った」と西原さんは振り返った。
懇談会は、的場順三内政審議室長の司会で進められ、有識者に対して、3案についてまとめて意見を述べるよう求めたという。
重苦しい雰囲気の中、なかなか口火を切る人がいなかったが、ある有識者が「平成がいいんじゃないか」と感想を述べたのを皮切りに、「平成」を推す声が相次いだ。
一方、西原さんは議論に一石を投じた。
「平成」に反対はしないと断ったうえで、考慮すべき点を挙げたのだ。
「明治とか昭和というのが音がピシッと締まるのに対して、平成は、音が流れていく。大正というなんとなく個性や特色のない時代を想像させ、短い時代になってしまうような感じを持つ。そういうことは考えなくてよいのかと意見を述べた」
西原さんの主張に対し、ほかの有識者の1人が賛同する考えを示した。
一方、「修文」や「正化」を推す声は出なかった。なぜ、平成を推す声が多かったのか。
「やはり戦争ということがあったと思う。明治、大正、昭和という戦争の時代があった。戦後すでに40年の平和が続いたけれども、そういう時代に戻ってほしくない、『平成』は、平らかにして成るという、戦争のない平和な時代という意味を持っており、『これが合うんじゃないか』という感じを皆さん持たれた様子だった」
およそ1時間半におよんだ懇談会は、的場内政審議室長が「『平成』ということで考えがまとまってきたように思うが、そのように理解してよろしいか」と問いかけ、全員がうなずく形で、意見集約が図られた。
懇談会をめぐっては、政府側が「平成」になるように誘導したという議論もある。
これについて西原氏は「そういう感じは全くなかった。『平成』がいちばん最初に出てきただけで、懇談会で自主的に決めたと思っている」と述べた。
懇談会は、表立って意見を戦わせるのではなく、1つの結論に向けて皆が少しずつ意見を積み重ねていく場だったとも言える。おととし12月に開かれ、天皇陛下の退位と皇太子さまの即位の日程が固まった皇室会議でも、同じように採決によらずに意見集約が行われた。
時代の移り変わりという一大事を、足並みをそろえて、つつがなく行いたいという関係者の気持ちが表れているように感じた。
「会議の席上における予測は、ある面で間違っていたが、ある意味で正しかった。大正のように短く終わってしまうと感じたが、天皇陛下がお元気で象徴天皇らしいお仕事をされ、暗い時代ではなかった。一方、自然災害が多かったものの、後から振り返った時に個性や特色がある時代ではなかったように思う」
「ただ、個性のない時代が不幸だったかというと必ずしもそうではなかった。自然災害に遭われた方には大変失礼だが、戦争がなく、一般国民の多くは毎日がいつもどおりだった。戦争を経験した者としては、いつもどおりという時代は大変幸せだった」
そして最後に、西原さんは、近く迎える新たな時代と元号について「自分はそこまで頭が回らない。『平成』という時代の幕開けに携わり、その時代の終わりを見届けることができただけで十分だ。新たな元号の思いはこれからの時代を生きる人たちに考えてほしい」と語り、来月開かれる懇談会に、若い世代の代表が入ってもよいのではないかという考えを示した。
新たな元号の発表までおよそ1か月。
菅官房長官はことし2月の記者会見で、有識者からなる懇談会について「時代が変わっているので、必ずしも同じところからということではないと思っている」と述べ、メンバーの人選は前例によらない可能性を示唆した。
また、政府内からは、懇談会のメンバーについて、女性は当然入ることになるという見方のほか、「選ばれた人に取材が殺到する」などとして、早期に発表することに慎重な意見も出ている。
一方、新元号について、複数の政府関係者が、すでに何人かの専門家に検討を依頼していることを認めている。
ただ、新元号の発表前に、正式に委嘱の手続きも踏まれる見通しだ。また、新元号は、典拠(出典)を合わせて示すことが定められているが、考案者の中には、中国だけでなく、日本の古典の専門家が含まれているという見方を示す関係者もいる。
政府は、新元号発表の4月1日、情報が漏れることを避けるため、懇談会に出席する有識者に加え、閣僚会議に出席する閣僚も含めて、発表まで官邸の内部に足止めし、携帯電話など通信機器も預け入れを要請し、外部との連絡を遮断することを検討している。
安倍首相 沖縄 玉城知事と会談 「真摯に受け止め 対話継続」 #nhk_news https://t.co/NgBr5vHM3o
— NHKニュース (@nhk_news) 2019年3月1日
総理大臣官邸で行われた会談で、沖縄県の玉城知事は先月24日の沖縄の県民投票で、アメリカ軍普天間基地の移設計画に伴う名護市辺野古沖の埋め立てに反対する票が、有権者の4分の1を超えたことなどを伝えました。
そして、玉城知事は「辺野古移設断念を求める県民の民意が初めて明確にされたことは極めて重要な意義がある。沖縄県民の思いを真正面から受け止めていただきたい」と述べ、工事を中止するとともに、基地問題を話し合うための日米両政府と沖縄県の3者による協議の場を設けるよう求めました。
これに対し、安倍総理大臣は「県民投票の結果は、真摯に受け止めながら、一つ一つ負担軽減に向け、結果を出していきたい。普天間基地は世界でもっとも危険な基地と言われており、もはやこの状況を先送りすることはできない。沖縄の皆様にご理解頂けるよう努力を重ねていきたい」と述べ、引き続き、玉城知事との対話も継続し、普天間基地の移設計画に理解を求めていく考えを示しました。
会談のあと、玉城知事は記者団に対し「県民投票で埋め立てはだめだという声を発したこのタイミングで新しい段階での話し合いが必要だ」と述べました。
玉城知事はこれに先立って、東京のアメリカ大使館を訪れてヤング首席公使と会談し、トランプ大統領あての県民投票の結果を示した通知文書を手渡しました。