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法律における理窟と人情

法律における理窟と人情

内容は表題作の「法律における理窟と人情」、「家庭生活における民主化」の二編から構成されています。

前編は、杓子定規な法解釈を適用する際にどうやって個々の事情を斟酌していくのかについて語られていて、
理窟で対処することが困難な場合の折り合いのつけ方について参考になる点がありました。

後編は、題名の通り夫婦間、親子間、さらに発展して日本人全体を覆う権威主義と秩序の話題が中心です。
旧い家族制度(父や男が絶対で従うべき)を礼賛するのではなく、
家庭の中でも個々の人格を認めてゆく精神態度を強く希求されている点に、我妻氏の暖かで強靭な人柄を垣間見た気がしました。

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人は人、家族であろうとも、親であろうとも、子であろうとも、妻・夫であろうとも、兄弟であろうとも、みな一人の人でございます。

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 しかし、あまり強調されていませんが、1890年代から1945年までの戦前の日本でも、牧野英一(1878-1970)を筆頭に刑法の一大潮流として新派刑法学は勢力を誇り、そうした背景のもとで治安立法や翼賛体制が進んだことは認識しておいてよいと思います。

 このあたりは直接ご本人からうかがって「面白いなぁ」と思ったのですが、一般的には牧野は新派刑法学、その弟子である小野清一郎(1891-1986)が新古典派(後期旧派刑法学)に転じ、小野教授が指導教官であった團藤重光先生も旧派=新古典派刑法学の観点から、戦後GHQと交渉し、新憲法下での刑事法制を確立(日本語・英語で刑事訴訟法を書き下ろされた)します。

 團藤先生は率直に言って「小野先生」には非常に批判的で「牧野先生」を高く評価しておられました。

 と言うのも、新派に立脚するとしながら「牧野先生」が社会全般や自然科学にまで広く目を配る大教養人で、「新派刑法」もこれを性善説的に解釈することで司法の現場にで「執行猶予」の積極的活用などを主張、「自由法学」を提唱し、若き團藤青年はその学統を継ごうと考えました。

 これに対し、旧派に戻ったと言いながら「小野先生」は個人の理性による犯罪抑止の限界に対して、国による道徳秩序の維持指導の観点を強調することで戦前、戦時中の国家主義の暴走を許す面があったなどとして、團藤先生の評価は非常に辛かった。

 これは満州事変の時期に学生として学び、2.26事件は法学部助手、直後から翼賛体制下で東大助教授を務め、戦後、年長の教授が軒並み公職追放となるなか、30代前半で単信GHQと交渉し、戦後日本の民主的な刑事司法制度をゼロから確立された、その中で抱かれた確信であったように思います。

 「天皇の戦争責任」が問われたそのタイミングで、若干32歳の團藤助教授は、上が軒並みいなくなった東大法学部で日本の法治の大黒柱として踏みとどまった。

 そこで團藤先生が心の支えにされたのが幕末の経緯であり陽明学であった、といった内容は、法律家にははなから問題にされないことが多いですが、ご本人は本当に大切に伝えたいと切望しておられました。

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團藤 その頃はね、刑事法は牧野先生(牧野英一 1878〜1970)と小野先生(小野清一郎 1891〜1986)と、お2人がこう、チャンチャンバラバラで。大変だったんだよ。両方のお弟子ということは考えられないので、とにかく小野先生の方が若いから小野先生の方に行こうと思った。確かに仲が悪いんだね。正月に小野先生のところにお年賀に行って、それから牧野先生のところにも伺おうと思っていたら、小野先生は「あんなところには行かんでもいい」と。それですっかり小野先生に見切りをつけたの。立派な方だけど、いやしくも自分の恩師だろう、学生とは違う。「あんなところに行かんでいい」ということはないだろう、と思って。じゃあ、ぜひ行ってみようと思って小野先生には黙って牧野先生のところに遊びに行ったんです。面白かったよ。

團藤 牧野先生の話は面白いんだ、談論風発で。法律の話を抜きにして、いろいろな話をするのが。

團藤 牧野先生は世界的ですから。小野先生は日本で、仏教の方で偉いけどね。それぞれ別の角度から見るといいんですが。それで面白いと思ったものを、一生懸命やった。それだけのことです。

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