『南洲伝』覚書(19)ー西郷南洲と重野安繹。 呉座勇一のような三流の歴史学者に、いつまでもこだわってはいられないので、また何か「事故」でも起きたら呉座勇一問題に移ることにして 、『南洲伝 』の続編へ戻る。ところで、どうでもいいことだが、呉座https://t.co/1avlmpMG7a
— 山崎行太郎の毒蛇山荘日記 (@yamazakikoutaro) 2019年5月26日
呉座勇一のTwitterは、「 凍結」されたらしい。
そのうち、「 歴史学者」たちが、三島由紀夫や三島由紀夫事件を取り上げる時代が来るだろう。その時、三島由紀夫の文学的問題も思想的問題も 宗教的問題も、すべて「 死ぬ 」のだろう。しかし、残念ながら、三島由紀夫の場合は、「 歴史学者」には、手も足も出ないだろう。西郷についても、同じはずである。だから、重野安繹(しげの=やすつぐ )が、「歴史学者 」として、どんなに優秀でも、また、時の権力者=大久保利通に直々に依頼されたにもかかわらず 、「西郷伝 」を書き残すことは出来なかったのである。断片的な人物論や感想が遺されいるだけである。私の想像するに、奄美大島時代、三日三晩、夜を徹して、語り合ったこともある重野であったからこそ、重野安繹的な「 近代実証主義歴史学 」では、西郷の全体像を描くのに、歯が立たないことを知っていたのである。ちなみに、重野安繹(しげの=やすつぐ )は、「歴史学者 」として「児島高徳論」や楠木正成論」などを書き、文献や史料を武器に、「 児島高徳はいなかった 」「 楠木正成はいなかった 」などという抹殺論を、久米某( 東大国史学科教授 )らとともに、展開し、「抹殺博士」と呼ばれていた。しかし、彼等の方が、東京帝国大学の教壇を追われ、皮肉なことに「 抹殺」されている。
特攻隊からのメッセージ https://t.co/9Oe56R2En2 #jugem_blog
— 天無神人(アマミカムイ) (@yoshiokamanabu) 2019年5月26日
「当時の日本は、戦争が良い悪いではなく、人を大切にすることと、国家を大切に思うことは同じだったのです。
つまり、人と国家は同じだったのです。今は違うようですが・・・」
「敗戦後、GHQが私たち軍人に命令したことは、集会を行うこともよし、過去を惜しむのもよし、しかし、戦争に対する意見を述べることは禁止」されたそうです。
さらに、GHQが日本政府に命令したことは、「この戦争は日本の侵略戦争であり、愚かな戦いをしたのは日本人なのだ」と20年間、本当のことを国民に知らせることを禁じました。
その結果、国民全員が一致団結して戦ったはずなのに、自分たちの行いを反省したり、子供達にも戦いの意味を間違って教える大人が増えました。
当時、10代の人たちは今、80代になっていますが、その人たちでさえ、自分たちが間違っていたと語ります。
山崎さんは、さらに、こうお話されました。
「第二次世界大戦と呼ばれている戦争は、当時の日本国内では「大東亜戦争」と呼び、朝鮮半島や台湾などアジア諸国が、欧米諸国に植民地化されたいたからこそ、アジア諸国の解放のための戦争だったのです。」
しかし、どんな大義があっても戦いに負ければ、買ったほうが戦いの意味を書き換えるのが、歴史の常識です。
これで戦争をやった。