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 1953年のエリザベス女王戴冠式には当時の明仁皇太子が出席した。第2次大戦終結後まもなくということもあり、日本に向ける英国社会のまなざしは厳しく、式で用意されたのは末席だった。ところが、それを見かねて最前列の自分の席の近くに呼び寄せたのが、後にサウジの国王となるファイサル王子だった。その18年後の71年、ファイサル国王は国賓として日本に招かれるが、これは戴冠式での恩義にも関係していると筆者はみる。

 世界から注目される日本の皇室。これまで国際親善を通じて世界各国から尊敬の念を集める存在となった。思い起こされるのは、上皇上皇后両陛下による2000年、戦後初めて国賓としてのオランダ訪問だ。

「第二次大戦中、日本軍はオランダ領だったインドネシアで多くのオランダ人を抑留し過酷な環境に置いていました。多くのオランダ人が現地で亡くなり、補償問題もくすぶっていたため、両陛下の訪問当時、オランダでは強い反日感情を持つ人々も少なくなかった」(国際ジャーナリスト)

 1971年に昭和天皇がオランダを訪問した時は、陛下の乗られる乗用車のフロントガラスに液体入り魔法瓶が投げつけられるという事件も起きていた。そうした状況の中で、両陛下は首都・アムステルダムにある戦没者記念碑に足を運ばれた。

 献花され、慰霊碑を見つめ、直立不動の姿勢で頭を垂れられた。そのまま身じろぎもせず1分間、黙祷を続けられた。

「その姿はオランダ国内に生中継され、国中が静まり返ったそうです。同行したベアトリクス女王はその姿に涙を浮かべたといいます。両陛下は現地でオランダ国民と交流を重ねられ、そのことによって、オランダの対日感情は劇的に改善したのです」(前出・国際ジャーナリスト)

 上皇上皇后両陛下は戦没者の慰霊の旅を続けられた。国際親善も含め、皇太子時代に延べ81回、天皇即位後に延べ47回の計128回も外国訪問を果たされ、各国との信頼と友好の構築に努められた。

 そうした上皇陛下の薫陶を受けられ、現在の天皇陛下も国際親善の道を歩まれてきた。

「皇太子時代から諸外国とのおつきあいが密で、特にヨーロッパの王室とは親密な関係を築いてこられました。オセアニアのトンガの王室とも親密で、トンガ国王の葬儀や即位式の時は“ぜひ皇太子殿下にお越しいただきたい”と招かれていたそうです」(宮内庁関係者)

 また、雅子さまも国際親善に取り組んでこられた。

 1994年と1995年、当時皇太子だった陛下の公式訪問に同行し、アラブの7か国を訪れられた。男女が同席しないイスラムの慣習に基づき、陛下と別々に晩餐会に臨まれた雅子さまは、通訳を介さずに各国の女性王族と話を弾ませたという。

「日本の男性皇族が、アラブの男性王族と親交を深めることはこれまでもありました。しかし、女性王族と親しくなり、パイプをつくった女性皇族は雅子さまが初めてです。とても画期的なことでした」(別の宮内庁関係者)

 海外から賓客がやってくる場合は、東宮御所でおもてなしの精神を発揮されてきた。

「元外交官として活躍された雅子さまは、抜きん出た国際感覚をお持ちです。それだけでなく、にこやかで博識で、勉強家という面も持っています。賓客と会われる際も、相手のことをよく勉強され、会話が続くように話題も適切に選ばれ、受け答えも当意即妙です。そうしたもてなしを受けた賓客が、皇室に対し好印象を持つであろうことは言うまでもありません」(皇室ジャーナリスト)

 トランプ米大統領は「(妻の)メラニアは美智子さまを大変尊敬しています」と語ったことがあるほど日本の皇室への敬意を示している。5月、令和初の国賓として来日した際には「上皇上皇后両陛下はいかがお過ごしですか」と身を案じ、その後雅子さまと歓談される中で、その堪能な英語力に感嘆していた。帰国の途に就く時には、「(両陛下は)リーダーとして素晴らしいだけでなく、カップルとしても素晴らしいと感じました」と最大限の賛辞を述べた。

 そうした力学とは無縁のところに、皇室の魅力を見出す人も少なくない。東京という人口過密都市にあって、緑豊かな皇居はそれだけで神秘性があり、一切の無駄がそぎ落とされた日本独特の「美」を宿している。

 日本の宮殿は、ヨーロッパの王宮や中東の宮殿と比べると、壮大さや豪華さにおいて遠く及ばないものも多い。しかし、簡明な美と安らぎを醸す独特の華やぎの空間として世界に比類ないものだという。

「過度な装飾を排し、会談の場には花瓶1つだけを置くような『引き算の美』に、装飾を重ねる美に慣れた外国要人は、感銘を覚えるのです」(皇室記者)

 そうした場所に、政治的な駆け引きや対立を超えて、各国の代表が集まることができる。そこで顔を合わせることで、和解や平和への道が拓けるかもしれない──それこそが、日本の皇室の持つ力であり、奇跡であるかもしれない。

 トランプ米大統領夫妻を接遇された際、海外メディアもこぞって、雅子さまが名門米ハーバード大学を優秀な成績で卒業され、外務省で活躍されたことを報じた。

 それからというもの、「天皇皇后両陛下に謁見したい」という各国要人からの申し出が後を絶たないという。雅子さまは諸外国に類を見ない日本の皇室の「唯一無二のエンプレス(皇后)」なのである。

 国際親善は時代とともに多くなり、皇室の活動におけるそのウエートも日に日に大きくなっていく。そうした中で、雅子さまはどのような取り組みを進められるのだろうか。元宮内庁職員で皇室ジャーナリストの山下晋司さんは言う。

「世界的に著名な外交官の子女であり、ご自身も優秀な外交官であった皇后陛下は、皇室にお入りになるまで長年外国で生活されていたこともあり、豊かな国際感覚をお持ちであることは言うまでもありません。国際プロトコールも理解されており、その感覚はこれからもずっと生かされていくでしょう。

 皇后陛下が外国の元首夫妻に対して堂々と対応されるお姿を誇らしく思う国民は多いでしょう。日本は女性の社会進出が遅れているといわれている中、働く女性にとって皇后陛下は励まされる存在になるでしょうし、日本女性の象徴的存在になっていかれると思っています」

 雅子さまは10月22日、その存在感を、広く世界に示されることだろう。

この留学生活を間近で見ていたのが、ロンドン警視庁から警護のために派遣されたロジャー・ベーコンさん(77)です。

およそ2年間にわたって、大学の寄宿舎にある天皇陛下の部屋の隣に同僚と交代で泊まり込み、外出の際は、必ず同行したことから、天皇陛下から「警護という役割を越えて、イギリスのことを知るのに絶好の先生であった」と紹介された人物です。

ベーコンさんによりますと、天皇陛下は、研究の合間にみずから洗濯や買い物をしたほか、テニスやジョギングといったスポーツや楽器の演奏などを楽しまれていたということです。

また時折、イギリス伝統のパブも訪問されたということです。

その一つが、大学から歩いて5分ほどの距離にある、1242年創業とされる小さなパブです。

当時の様子について、ベーコンさんは「天皇陛下は、私と交代でカウンターに飲み物を買いに行き、ビールを飲まれることが多かったです。私と2人の時もあれば、友人と連れだって来られたこともあります」と明かしました。

天皇陛下は、パブ以外の飲食店にも関心を持たれたということで、ベーコンさんは「郊外にジャマイカ料理の店を見つけたと私が伝えると、天皇陛下は『いいですね、行ってみましょう』と言って、味を試しに行かれたこともありました。好奇心が非常に旺盛で、あらゆることを知ろうとされていました」と当時を振り返っています。

そのうえでベーコンさんは「天皇陛下はとても社交的で、多くの人と会って話すことをとても喜ばれていました。日本を離れてオックスフォードで過ごされた2年間は、人生を変える経験だったのではないでしょうか」と話しています。

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