【速報 JUST IN 】女優の八千草薫さん死去 #nhk_news https://t.co/onB819frOc
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【最後の手記】がん闘病中の八千草薫さんは「ちょっとだけ無理をして生きたい」と語っていた
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88歳で逝去――72年間の女優生活と闘病の全て #八千草薫 #文藝春秋 https://t.co/T1BhGk0xbl
昔は「歳をとる」という現象について、深く考えることはありませんでした。気づいたら20代、30代、40代……あっという間に時を刻んでいました。
年齢を少し意識するようになったのは、80歳を過ぎてからだと思います。ペットボトルの蓋が開けられなくなる。階段を昇るのがしんどくなる。今まで簡単に出来ていたことが難しくなりました。舞台で勢いあまって転んでしまったこともあります。
こうして振り返ると、自分の体がどんどん変わっていくのを感じます。否応なく“体力の衰え”という現実を突きつけられると、やっぱりショックを受けますよね。あーあ、とため息もついてしまいます。
「歳をとる」というのは、皆、経験したことがないですから、いつでも初体験。未知のものは誰だって怖いでしょう。
体力、筋力、思考力が低下していくなかで、不安になることもあります。でも、どうにもならないことを、うだうだと考え続けるのはつまらない。それで50歳まで若返るわけでもないですしね。変わっていく自分をちょっとずつ受け入れていくしかありません。だから悩みが出てきたときは、「えいっ!」と思い切って、考えること自体を諦めてしまいます。そうやって楽しく、肩の力を抜いて、歳をとることができればいいなと思っていますね。
診断が出たとき、私は意外とショックを受けませんでした。その時、どんな感情だったのかを表現するのは難しいのですが、「あ、とうとう来たんだ」という感覚でした。そうやって現実がすとんと、自分の中に落ちてきたのです。
もっと若い頃にがんになっていれば、不安を抱えたのかもしれません。「夢があるのに」「まだまだ生きると思っていたのに」と、悲観的になったかもしれません。でも、今の私は80歳を超えていて、この先そんなに長く生きる年齢ではない。寿命がすぐそこに見えているという事実が、私を冷静にさせました。
それに、くよくよ悩んだからといって病気は治りません。
「まぁ、病気になってしまったものは、しょうがないな」
そう思って、日々をしっかりと、精一杯生きていくしかないのだと思います。決して強がりを言っているのではありませんよ(笑)。
脚本の倉本(聰)先生とは、これまで何本もドラマをご一緒させていただいています。先生は、演者が元々持っているものを膨らませるようにして、登場人物を作り上げていかれる方です。『やすらぎの郷』で演じた戦前の大スター・九条摂子はちょっと変わった役で、私としてはかなり大胆に演じたつもりですが、自分と似ている部分も発見できて、興味深く感じました。
焦って無理をしすぎると、周りに迷惑をかけてしまう。逆に、全く無理をしないと人生の可能性を狭めてしまいます。これからは、欲は持ちすぎず、“ちょっとだけ”無理をして生きていこうと思っています。
例えば道を歩いていても、コンクリートで出来た平坦な道はつまらなくて飽きてしまいます。逆に自然の中のデコボコした道は歩きにくいですが、「ここに足を置けばいいかな」と考えながら歩けるので、ちょっとわくわくしますよね。
今は亡き主人・谷口千吉とは、お芝居の世界で出会いました。映画監督をしており、私より19歳も年上でした。私は父を早くに亡くし、「父親」というのがどういう存在なのかを知らずに育っています。主人から「君は父親と結婚したつもりでいるんじゃないか」と、からかわれていましたね。私が26歳のときに結婚してから50年、95歳で亡くなるまでずっと一緒にいました。
長い結婚生活の中で喧嘩をしたことはほとんどありませんでした。私たちは好きなもの、面白いと思うことの価値観があい、主人といる時の私はすごくリラックスした状態になれていました。どこか似たもの同士で、ウマがあった、ということなのかもしれません。
人の寿命は神様が決めるもの。主人が亡くなった過去は変えられません。
今でもふとした時に寂しさはやってきます。でも、その感情を否定することなく、寂しさと上手く寄り添いながら生きています。
小学2年生になった頃、私は体を悪くして、兵庫県の六甲に住む祖父母の家に3年間預けられたことがあります。周囲には緑豊かな畑が広がり、六甲に連なる山々をすぐ近くから眺めることができる、とてものどかな地域でした。だからなのか、今でも自然のなかに身をおくと心が安らぎます。
病気で転校したため、しばらくは学校にも通えないし、外でも遊べません。暇をもてあまし、家に置いてあった本に手をのばしました。それをきっかけに、たちまち物語や空想の世界に夢中になったのです。記憶に残っているのは江戸川乱歩の『怪人二十面相』やフランシス・ホジソン・バーネットの『小公女』など。祖父母が買ってくれた児童文学全集から大人向けの雑誌まで、片っ端から読み漁りました。
私にとっての別の世界。その一つが「山」になります。
主人は山登りが大好きで、結婚してからは私もよく連れていってもらいました。2人とも、冬の雪山が大好きでした。主人は背が高くて歩幅が大きいので、私を置いてどんどん先に登っていく。それを後から追いかけていくのですが、たった1人で、真っ白で幻想的な風景の中を歩いていると、山に大きく包み込まれているような感じがしたのです。
「山に登る」というより「山に入る」という感じ。自然の中に自分が入っていく、という感覚です。人間も動物なので、自然と一緒になるとすごく気持ちがいいんです。「自然」というと、紅葉などの景色を思い浮かべる方が多いと思うのですが、そういう「眺める自然」だけでなく、肌に触れる空気がヒヤッとしていたり、「五感で味わう自然」もあるのです。
そして「動物」もまた、昔から私にとって大切な存在でした。
小さい頃、家の近所に小型犬から大型犬まで、7匹ほどの犬を飼ってらっしゃるお宅がありました。その子たちの匂いを嗅いでいるととても落ち着くので、私は夜になるとそのお宅にうかがって、彼らに混じってすやすやと寝てしまうことが多かった。ノミがパジャマの中にいっぱい入ってくるので、母親にはよく怒られましたが(笑)。
今、我が家で暮らしているのは猫が1匹、犬が1匹。そして、庭には毎日小鳥たちがやって来ます。動物たちとは言葉を交わすことはできませんが、ずっと一緒にいると心が通じ合っているような気がします。そうでなくとも、なんとか彼らの気持ちを汲み取ってあげたいという気持ちがわいてくるのです。
ただ自然の中に身をおいて、四季を感じ、動植物と触れ合う。そんな時間が私にとっては何よりの宝物なのです。こうしてのんびりと暮らしていると、「ひょっとして、私は人間よりも動物に近いのかな?」と思うことがあるくらいです。
その生活の中で気づいたことがあります。時間というのは、人間にも動物にも植物にも平等に与えられるものです。死も一緒です。生きとし生けるものに、確実に訪れます。私も病気をしたことで、自分の「死」が近づいたことを感じました。
ですが、全ての生き物の中で人間だけが、取り返しのつかない過去を嘆いたり、どうなるか分からない未来を不安がったりしています。過去や未来のことを心配しても何にもなりません。どうにもならないことは考えなくていいのです。
では何を大事にして生きればいいのか。
それは「今」です。1日をきちんと大切に生きるというのが、本当はとても難しい。目の前のことをごまかして先に進んでも、結局はうまくいかなくなります。私は「今」というこの瞬間から逃げず、一瞬一瞬を大事にして生きたいです。