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旧日本軍による真珠湾攻撃から78年にあたる7日、ハワイでは攻撃が始まった時刻に合わせて犠牲者を追悼する式典が行われました。

ハワイの真珠湾を臨む公園で行われた式典には、旧日本軍による真珠湾攻撃の際に戦闘に加わったアメリカ軍の元兵士や犠牲者の家族、それに軍の関係者らおよそ2000人が出席しました。

出席者たちは真珠湾攻撃が始まった現地時間の7日午前7時55分日本時間の8日午前2時55分に合わせて黙とうを行い、攻撃で死亡したおよそ2400人を追悼しました。

続いて、アメリカ海軍ハワイ司令部の司令官が「78年前のきょう、ここ真珠湾で悲劇的な攻撃があったことを思い起こすとともに、アメリカという国の強じんさを改めて認識したい」と述べました。

そして、真珠湾攻撃を受けた軍艦が今も海底に沈む海に向かって追悼の意を表す空砲が撃たれました。

真珠湾攻撃から78年となり当時の体験を語れる人が少なくなる中で、アメリカでは当時の記憶をどのようにして継承していくかが課題となっています。

太平洋戦争中、オアフ島のホノウリウリという場所にあった強制収容所です。ハワイにいた大勢の日系アメリカ人は、真珠湾攻撃を境に「敵性外国人」とみなされ、このうち、日系人社会で指導的立場にあった人など、およそ400人がここに収容されました。

収容された人たちは、戦後、釈放されたあとも、社会からの差別を恐れるなどして多くを語らず、収容所の存在は人々の記憶から長く消し去られていました。

しかし、今からおよそ20年前、日系人の人たちがこの収容所があった場所を突き止め、発掘調査を始めました。

クラハラさんたちの努力が実って、4年前、みずからもハワイ出身の、当時のオバマ大統領が収容所跡を国の史跡に指定。
国の財政的な支援も得られるようになり、3年前には資料館がオープンしました。

収容所内で日系人たちが、気を紛らわそうと作った首飾りや、歯ブラシの柄から作った指輪なども展示されています。

今では、多くの観光客が資料館に見学に訪れるようになっています。

「国民義勇戦闘隊」は、女性や少年を含めた一般国民を戦闘員として動員する部隊で、昭和20年6月以降、本土決戦に備えて各地で準備が進められました。

この「国民義勇戦闘隊」に関する当時の資料が、福井県勝山市の公民館に残されていることが分かりました。

残されていたのは「義勇戦闘隊関係法規綴」と記された資料で、学習院大学の斉藤利彦教授らの研究グループが調査したところ、陸軍の「福井地区司令部」が昭和20年7月に作成した動員計画に関する文書などがとじられていました。

この文書には、福井県内のすべての部隊の編成を8月中に完了させることや、編成の際には隊員の特徴を踏まえて部隊の戦闘能力や役割を判断することなど、具体的な計画や方法がおよそ10ページにわたって記されています。

研究グループによりますと、国民義勇戦闘隊に関連する資料は戦後すぐに焼却処分されたと考えられ、これまでほとんど見つかっていないということです。

斉藤教授は「8月15日に終戦を迎えていなければ、若者や女性までもが兵士として戦うという国民総動員の戦争が寸前まで迫っていたことをはっきりと示す資料だ」と指摘しています。

「国民義勇戦闘隊」は昭和20年6月に施行された「義勇兵役法」にもとづく組織で、この年の5月から全国各地に設けられた「国民義勇隊」から移行する形で編成や動員の準備が進められました。

国民義勇隊が、空襲被害の復旧や軍の後方支援など戦闘には直接関わらない組織だったのに対し、国民義勇戦闘隊は、本土決戦となった場合には兵士とともに武器を持って戦闘に加わることを義務づけられています。

男性は15歳から60歳、女性は17歳から40歳までが召集の対象とされました。

研究グループによりますと、旧ソビエト軍の侵攻を受けた樺太、今のサハリンでは、戦闘に参加して犠牲者も出たということです。

地域のほか職業ごとに設けられた部隊もありましたが、実際に編成されたのは一部にとどまり、資料もほとんど残されていないことから詳しい実態は明らかになっていないということです。

斉藤教授は「戦闘隊に関する資料はまだ見つかる可能性がある。来年で戦後75年となることからも、こういった資料を風化させないために調査して残していく作業はまさに喫緊の課題だ」と話しています。

資料が残されていた公民館は、当時の平泉寺村、今の勝山市平泉寺町にあり、村から公文書を引き継いで保管していました。

今回確認された「福井地区司令部」が作成した文書には、本土決戦に備えて国民義勇戦闘隊を編成・動員する計画が具体的に記されていました。

それによりますと、敵の攻撃を受ける可能性がある沿岸部などでは8月10日から15日にかけて編成を行い、8月中には福井県内のすべての部隊の編成を完了させ、その後、直ちに動員する計画でした。

また、部隊の編成は地域ごとに行われ、派遣された軍人らが、隊員の特徴を踏まえて部隊の戦闘能力や役割を判断することになっていました。

同じつづりには召集の具体的な手順を定めた軍の機密文書もあり、戦闘隊の編成を見据えて事前に戦闘訓練などの準備を進めておくことなどが記されています。

一方、今回の調査では、「国民義勇隊」に関する資料も確認され、その内容からは、村が「国民義勇戦闘隊」への移行を速やかに進めようとしていたことがうかがえます。

このうち国民義勇隊の隊員名簿には、平泉寺村に暮らしていたおよそ2000人の4分の1に当たる、500人余りの名前が記録されていました。

また、「国民義勇隊書類」というつづりの中には、状況が切迫した場合には隊員は戦闘隊に参加するという規則が記されているほか、昭和20年7月に義勇隊の結成式が神社で開かれ、およそ500人の村民が竹やりを使って戦闘訓練を行ったことなどが記録されていました。

この地域は、白山信仰の拠点の1つとして宗教都市として栄えた歴史があり、研究グループによりますと、戦前から戦時中にかけては天皇による国家統治を重んじる思想を持つ人が多くいたとみられるということです。

斉藤教授は「早い段階から戦闘隊の準備が進められていたことからみても、村全体で国土を守るんだという意識が高まっていた地域であったと言えるのではないか」と指摘しています。

また、調査に同行した福井県文書館の柳沢芙美子副館長は「地域の方々の配慮によってこの資料が70年以上も残されたことに驚くとともに、感謝したい。県内のほかの地域にも重要な記録が出てくる可能性もあるので、何かの機会に資料を見てもらうことで新しい発見につながり、研究が進んでいくことを期待している」と話していました。