簡単にいえば、真理というものは、言葉や文字で表現するのはとてもむずかしいということなのです。
— 塩沼亮潤大阿闍梨のことば(慈眼寺) (@ryojun_shionuma) March 12, 2020
だからお経や書物に書かれていることや、その解釈ばかりにとらわれず、
実践を重んじなさいということです。
熱いものを触れば熱い、冷たいものを触れば冷たいと感じ
るように、
— 塩沼亮潤大阿闍梨のことば(慈眼寺) (@ryojun_shionuma) March 12, 2020
みずから体験を通して学ぶのです。
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キリスト教の最大の神学者は、アウグスティヌスでもなければ、トマス・アクィナスでもない。神のことを最もよく知り、神について最も重要な言葉を語った者、それは神御自身にほかならない。じっさい、トマスも、神学を学ぶとは、神の自己知に分けあずかっていくことにほかならないと述べている。
— 山本芳久 (@201yos1) March 12, 2020
本格的な古典を読むさいに、まず入門書や要約的解説から入っていくのは、とてもいいことだ。第一に、理解の基本的な方向づけを与えてくれるし、第二に、優れた書物がいかに要約不可能なものかということが、優れた要約に触れることによってこそ、あらわになるからだ。挫折する可能性が圧倒的に減る。
— 山本芳久 (@201yos1) March 12, 2020
「それなら、善についても同様ではあるまいか。他のすべてのものから<善>の実相を区別し抽出して、これを言論によって規定することのできない人、―思惑を基準とするのでなく、事柄自体のあり方を基準として吟味しようと熱心につとめながら、あたかも戦場におけるがごとく、吟味のためのあらゆる論駁を切りぬけ突破して、すべてこうした中を不倒の言論をもって最後まで進みおおせるということのできないような人、―そのような人は、<善>そのものはもとより、他のいかなる善きものをも知ることがないと、君は言うのではないか。かりにたかだか、その影のようなものに触れることがあったとしても、それは思わくによって触れているのであって、知識によるものではなく、かくてこのような人は、今生を夢と眠りの内に過ごしながら、この世で目を覚ますより前に冥界に行ってしまい、こんどこそ完全な眠りにおちてしまうことになるのではないか?」
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