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 というのも宮子は、藤原氏腹初の天皇となる聖武を出産後、鬱状態となって、次に我が子に会うことができたのは、なんと聖武が37歳になってからだったのです。その様を『続日本紀』はこう伝えています。

「皇太夫人(藤原宮子)は鬱状態に沈み、長いあいだ人間らしい活動ができなくなったため、天皇をお生みになって以来、かつて一度もお会いにならなかった」(天平九年十二月二十七日条)

 それが、僧正の玄ぼう(へんが日でつくりが方)法師が一度看病しただけで、目が覚めたように正常になった、というのです。

 今も皇室に入るというのは相当なストレスであることは、雅子皇后が長いこと適応障害に苦しまれたのを見ても察することができます。

 天皇家に入内した娘が、かなりつらい思いをしていたであろうことは、先にも挙げた平安中期の『うつほ物語』が伝えています。

 この物語では、天皇家に入内した“あて宮”が、父をこうなじっている。

「こうも世間から隔たった世界に据えられて、煩わしいことばかり耳にして、聞きたいような素晴らしいことは、誰も彼もお聞きになるのに私は聞けない。悩みがなく、思い通りのことを見聞きしてこそ理想でしょうに」(「楼の上 下」巻)

 彼女には熱心な求婚者たちがいて、その一人に彼女自身も心を寄せていたのです。そのためこんなふうに言って泣いたこともあります。

「つらすぎる。私のことを好きだった人と結婚すべきだったのに」(「国譲 上」巻)

 それもこれも、

「本人が物凄く嫌がったのに、朝廷も親も躍起になって無理強いしたから」(「国譲 上」巻)

 と、父親は言います。

『うつほ物語』はフィクションですが、現実にこうした女性がいたからこそ物語にも描かれているのです。

 この手の娘たちの苦悩については、回を改めて詳しく触れますが、宮子はこのあて宮のように自分の感情をぶつけることもかなわず、病に沈んでいったのでしょう。

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