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現代の日本において民主主義を考えるにあたって、忘れられない会話がある。

だいぶ前のことになるが、企業や官庁において指導的地位にある方々(いわゆる「エラい人」)の非公式の会合に参加したことがある。

ある方は「企業においてはトップがきちんと判断し、下はそれに従えばいい。トップは結果によって判断される。ビジネスの世界に民主主義が入り込む余地はない」と断言された。

日本の企業において、トップはその業績に対して本当に責任を取っているのだろうかという気もしたが、黙っていた。

またある人は「中国を見ていると、民主的な体制とは言えないが、それだけに決断が早い。決まるとすぐ実行される。その中国が経済的にもこれだけ成功している以上、もはや民主主義を擁護するだけの自信が自分にはない」と口にされた。

正直な感想だとは思ったが、日本社会において責任ある地位にある人にそう言われると、不安な気分になった。そして、こういう会話が、日本の至るところでなされているのだろうなと思った。

おそらく、その場にいた人にとって、民主主義とは、多くの人がいろいろなことを言って、誰も責任を取らず、決めるべきことも決められず時間ばかりを浪費する手続きなのだろう。

そして日本はそのような悪しき民主主義によって手足を縛られ、何も決められないとして苛立ちを感じているのだろう。

そのことはよくわかったが、同じ人が、違う場所では「民主主義的に多数決で決定したのだから、従ってもらう」などと言っている姿が容易に想像できるだけに、なんだか民主主義が気の毒にも感じられた。

しかし、民主主義とはただひたすら時間がかかり、何も決定できない手続きなのだろうか。みんなが勝手なことを言って、誰も責任を取らないことを言うのだろうか。

あるいは逆に、民主的な決定の名の下に、異論を封じ、少数派を抑圧する口実に過ぎないのだろうか。自分としては、そのいずれに対しても「違う!」と言いたい、そんな思いを抱えて、時間ばかりが流れていった。

ところが、今年になって、新型コロナウイルスの感染拡大とともに、同じような会話を再び耳にするようになった。

「危機においては、迅速な決定が必要だ。民主的な手続きに従って、時間を浪費するわけにはいかない。危機に民主主義は相応しくない」

「中国を見よ。住民に有無を言わせずロックダウンを実行し、さらに個人のプライバシーを無視してでも行動追跡アプリを開発し、見事に感染拡大を抑え込んだではないか」

またか、という思いを抱きつつ、いよいよ民主主義について、自分なりの考えを世に示していく必要があるという思いを新たにした。

ただし、単に「新型コロナウイルスと民主主義」という形で議論するのでは、不十分にも感じられた(実際、この間、そのようなテーマで取材を受け、解説記事もいくつか執筆したのだが)。

むしろ民主主義についてより本質的に、歴史的な視野の広がりを持って論じたい。そう思って上梓したのが本書『民主主義とは何か』(講談社現代新書)である。

民主主義(democracy)という言葉の語源は古代ギリシアにある。民主主義の起源をどこに見出すかについては、もちろん議論がある。

古代ギリシアだけが唯一の起源ではないことはたしかだろう。だが、古代ギリシアにおける民主主義の実践については、やはり見るべきものが多い。

例えば、民主主義が最盛期だった都市国家アテナイにおいて、すべての公職が抽選によって選ばれたのは有名な話だろう。選挙で政治家を選ぶのは貴族的で、すべての市民が交互に公職につく方がより民主的であるという発想は、ある意味で驚異的ですらある。

唯一の例外は将軍職であり(選挙で選ばれた)、有名なペリクレスをはじめ、優れた政治家はこの職につくことが多かった。とはいえ、そのペリクレスもまた、民会で話すときは一市民としての資格においてであった。

考えてみて欲しい。古代ギリシア都市国家においては、職業軍人もいなければ、警察官も存在しなかった。指導者は最後の最後まで、強制力を欠いたまま、己の言葉のみによって他の市民を説得するしか方法がなかったのである。

同じく抽選で選ばれる評議会こそ存在したが、官僚制をあてにするわけにもいかなかった。そのような条件において国政を担う政治家の厳しさを思うとき、古代ギリシア史家として著名なフィンリーの言葉が実に重く感じられるだろう。

アテナイの政治指導者であることの条件を最もよく表す言葉を一つだけ選ばなければならないとしたら、それは「緊張」という言葉になる〉(『民主主義 古代と現代』、講談社学術文庫)。

さらに興味深いのは、「違法提案に対する公訴(グラフェー・パラノモン)」である。これは民会や評議会で、法に反する提案がなされた場合、提案者を告発するための制度である。

民衆裁判で認められれば提案は無効とされ、提案者は処罰されることになった。後の違憲立法審査権を思わせる制度だが、民会で不当な提案をすれば、後々になってその責任を問われたのである。

アテナイの民主主義において、市民たちは実に大きな緊張感と責任感をもって発言し、行動せざるをえなかったことがよくわかるだろう。

その意味で言えば、民主主義とは、多くの人が無責任に発言し、決まるものも決まらない仕組みであると批判する人間は、民主主義そのものを批判しているのではない。

むしろ、公共の任務についての自らの緊張感と責任感の欠如を白状しているに過ぎないのではないか。少なくとも、古代ギリシアの市民たちは、そうではなかった。

そして、彼らは多数決を否定しなかったが、それはあくまで開かれた、緊張感ある議論を尽くした後であった。議論もろくにせず、多数決の名の下でゴリ押しをする現代のリーダーたちと同列に論ずることはできない。

議会制についても要検討である。よく学校の教科書に次のような記述がある。

古代ギリシアで人々は広場に集まり、直接顔を合わせて議論したが、近代国家の多くでは、国民が実際に集まることが不可能なため、選挙を通じて代表者を選び、代わりに議論を行うことになった」

そして前者を直接民主主義、後者を間接民主主義(代議制民主主義)と呼ぶとご丁寧に説明してある。しかし、このような簡単な表現にこそ、民主主義をめぐる混乱が隠されているように思われてならない。

もちろん、日本のような国で、有権者が一箇所に集まって議論を行うことは非現実的だろう。が、問題は、ならば両者を同じ言葉で表現すべきではなかったのではないか、ということである。

繰り返しになるが、古代ギリシアで選挙は民主的ではないとされた。ヨーロッパの議会制にしても、その起源は身分制議会にあった。いわゆる議会制なるものは、本来、あまり民主主義と関係がなかったのである。

なのに、いつの間にか、民主主義とは代議制民主主義のことであり、民主主義といえばまず選挙をイメージするようになってしまった。

現在、代議制民主主義への信頼が低下していると報告されている。世界中に見られる現象だが、日本も例外ではない。その傾向はとくに若い世代に顕著であり、「代議制民主主義を信頼している」と回答する若者は、二割程度、もしくはそれ以下になっている。

多くの若者にとって、自分の声は政治に届いていないし、自分の力で政治を変えられるとも思っていない。現行の代議制民主主義に対する不信は明らかであろう。

筆者としても、現行の代議制民主主義がうまく機能していないことを認めるにやぶさかではない。選挙制度に問題があり、現在の政党が有権者にとって十分身近なものでないこともたしかだろう。

が、よくある言い方を使えば、「代議制民主主義が嫌いでも、民主主義は嫌いにならないで下さい」と主張したい。議会制が直ちに民主主義を意味するわけではない。少なくともそれは、考えられる民主主義の極々一部にしか過ぎない。民主主義を諦めるにはまだ早いのである。

実際、現在、私たちが(代議制)民主主義と呼んでいる諸制度は、たかだかこの二世紀ほどの間に生まれた常識にほかならない。本書でも詳しく解説しているように、常識の形成にあたって、ミルやバジョットをはじめ、一九世紀英国の政治思想家のはたした役割が大きい。

が、だとすれば、今からわずか150年程前のことである。現行の制度はまだまだ再検討の余地を多く含み、具体化の道筋はいくらでも存在する。これが正解だとあまり決めつけるわけにはいかない。

が、民主主義を考えるにあたっては、専門用語をあらかじめ知っていることは必須の要件ではないし、誰もが自分の実感に即して考えることができるのが民主主義だと考えている。

#反中国#対中露戦#習近平伏魔殿体制=旧体制

日本学術会議を所管する井上科学技術担当大臣は、23日、学術会議の梶田会長と面会し、未来志向で今後の学術会議の在り方を検討したいと伝えたのに対し、梶田会長は、学術会議の提言機能などを検討し、年末をめどに報告する考えを示しました。

井上大臣としては、学術会議が期待されている役割を発揮できるよう、機能の強化も含め、検討したい考えで、今後の対応をめぐって、来週にも、自民党の作業チームで座長を務める塩谷・元文部科学大臣らと意見を交わしたいとしています。

また、学術会議には、昨年度、事務局の常勤職員50人の人件費として、3億9000万円が充てられるなど、年間、およそ10億円の国の予算が支出されていることも踏まえ、河野行政改革担当大臣は、行政改革の観点から、予算や事務局の規模などの妥当性を検証する方針で、今後、政府内での作業が本格化する見通しです。

東京都は24日、午後3時時点の速報値で都内で新たに203人新型コロナウイルスに感染していることを確認したと発表しました。1日の感染の確認が200人を超えるのは7日前の今月17日以来です。

都によりますと、感染が確認されたのは10歳未満から80代までの男女合わせて203人です。

年代別では、
▽10歳未満が2人
▽10代が13人
▽20代が61人
▽30代が40人
▽40代が25人
▽50代が25人
▽60代が17人
▽70代が14人
▽80代が6人です。

1日の感染の確認が200人を超えるのは7日前の今月17日以来です。

一方、都の基準で集計した24日時点の重症の患者は、23日より2人増えて25人でした。

これで都内で感染が確認されたのは合わせて2万9909人になりました。

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#政界再編・二大政党制