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佳子さまがお生まれになったのは、’94年12月29日のこと。年をまたいだ’95年1月4日、一般のお七夜にあたるこの日に、皇居内の宮内庁病院で「命名の儀」が行われた。

佳子さまのお名前は、秋篠宮さまと紀子さまがご夫妻でお決めになった。「佳」には「美しい、優れている」の意味があり、ご夫妻は「身体が健康であるだけでなく、人の気持ちを理解し、素直で思いやりがあるなど、心身ともにいろいろな意味で『佳い』女の子に育ってほしい」という願いを込められたという。

その後、佳子さまは「佳」の字にこめられた「美しい、優れている」との意味通りに成長されていく。

ただ、秋篠宮ご夫妻は佳子さまには「多くの人が納得し喜んでくれる結婚」を切望されていることだろう。ご両親の願い通り「いろいろな意味で『佳い』女の子」に成長された佳子さまは、はたしてどんなお相手を選ばれるのか――。

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皇室は寿命みたいだな

対応能力が皆無

まあよく2700年近く持ったな。だがそれも一人の色情狂池沼デブスにより終わりを告げる。

毎年正月二日には、皇居で新年一般参賀が行われ、天皇陛下が宮殿のベランダに立ち、おことばを述べられてきましたが、来年は、感染拡大防止のため実施されません。

これに伴って、天皇陛下は、事前に収録したビデオメッセージで、新年のおことばを述べられることになっていて、宮内庁は、天皇陛下の新年の活動が始まる元旦の午前5時半に合わせて、ホームページで公開することを決めました。

天皇陛下が、国民に向けてビデオメッセージを出されるのは初めてで、元日に文書で出される新年の感想と一本化されるということです。

天皇によるビデオメッセージは、平成の時代、上皇さまが、東日本大震災の直後と、退位の意向がにじむお気持ちを表明された際の2度出されています。

 コロナ禍において天皇皇后の2人が姿をあまり見せないのは、まずもって感染拡大防止の側面があるが、法的には日本国憲法との兼ね合いがあろう。

 国政に関する権能を有しない象徴としての天皇は、戦前の反省を踏まえ、抑制的な行動をすることが求められた。イギリスのエリザベス女王が今回も積極的にビデオメッセージを発し、国民を励ましたが、それは君主という立場であるからこそできたのである。象徴である天皇に同じ役割を期待するのは難しい。

 一方、今回の新型コロナウイルスをめぐる方向性は、必ずしも一致しているわけではない。

 自粛なのか経済をまわすのか、国内では様々な意見が飛び交っている。もし天皇が何らかのメッセージを発した場合、政府の政策に賛同するのか反対するのか、どちらの立場に立つのかによって、その文言をその方向性に有利な形で解釈してしまう危険性もあった。政治的に利用される可能性があったわけである。それゆえ、天皇はメッセージを発することなく、姿も見せなかった。

 ただし、何もしなかったわけではない。4月10日には、尾身茂新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長(当時)から「ご進講」を受け、その際の発言が後日、宮内庁のHPに掲載された。

 ただし、その後は再び天皇皇后の姿はあまり見えなくなった。様々な人々を御所に招き、「ご進講」を受け、コロナウイルスの影響を受けた国民生活を心配する様子が報じられるものの、人々の関心はやや薄らいでいるようにも思われる。

 その要因は、メディアなどへの伝達のまずさにあるのではないか。

 先の尾身副座長の「ご進講」の際の発言も、宮内庁のHPに掲載されたのは、しばらく経ってからであった。スピード感のある時代にあって、かなりゆったりした時間感覚であることは否めない。

 また、白い布を被せた広い机を天皇皇后と説明者が挟んで行う「ご進講」も、その構図を何度も見ていると、たとえ説明者が変わっても、既視感にとらわれる。このように、同じスタイルゆえに、報道されるスペースも小さくなり、報道されたとしても次第に人々から関心が寄せられなくなっていくのである。

 いつも天皇皇后が外へ出て人々と触れあう「平成流」の継続は、このコロナの状況にあってしばらくは不可能であろう。そうすると、象徴としての天皇のあり方を新しく工夫して考え出す必要がある。その時、天皇皇后にだけそれを押し付けるのではなく、積極的に国民側から提案することも考えなければならない。

 天皇にどうしてほしいのか、どうあるべきなのか。象徴としての天皇の地位は主権の存する日本国民の総意に基くと日本国憲法に規定されている。それゆえ国民側も真剣に考え、提起するべきではないだろうか。

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大日本帝国憲法下の日本において、天皇臨席の下で重要な国策を決めた会議である。

広義には、官制上天皇親臨が定められていた枢密院会議、また王政復古直後の小御所会議や、天皇臨席の大本営会議なども御前会議といえる。しかし、狭義には、戦争の開始と終了に関して開かれた、天皇・元老・閣僚・軍部首脳の合同会議を指す。

1894年(明治27年)に対清開戦(日清戦争)を決定したのが最初。以後、三国干渉や日露戦争などに際して開催され、1938年(昭和13年)以後には日中戦争支那事変)の処理方針、日独伊三国同盟、対米英蘭開戦=真珠湾攻撃による太平洋戦争(大東亜戦争)開戦、太平洋戦争(大東亜戦争終結などを決定した。

大日本帝国憲法第13条には、天皇が開戦と終戦を決定する事が明記されていたが、例えば「御前会議法」というような法制上の開催根拠がないなど、御前会議の開催は困難であった。また天皇による意思の表明・発動は(天皇自らにその責任が及ぶため)好ましくないとされ、たとえ出席しても一言も発しないことが多かった。

御前会議での決定は、即時でそのまま国家意思の決定となるのでなく、改めてその内容について正式の手続(例えば閣議)の諮問を経てから正式に決定された。

水不足 | Far East Alexandria

古代中国であれば人民の徳のない行いは
王の政治責任として自らを犠牲にしますが、
原因が分からないとしても水が不足すれば
結局は全員に被害がいきます。

誰かに責任を押し付けようではなく、
全員当事者としての姿勢が問われる状況が
その内に来るのでしょうか。

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#天皇家

「太郎と私は学生時代から親友で、その兄弟や一族も皆、よく知っている。彼は射撃が好きで、スコットランドまで狩猟をしに来た事もあったな」

「たしかに、私の曾祖父は日本の明治維新を組織した。ただ、自分は商人なので、将来のビジネスの機会に興味がある。もし日本で大きな問題が生じたら、太郎に助言を求めるだろう。副総理と財務大臣を兼ねるのは極めて強力な地位だからね」

「中国人がアヘンを燃やした時、われわれは英国政府に軍艦を送り込むよう促した。その結果、香港は割譲されたが、アヘン戦争を正当化し、過去を否定するつもりはない。あれは不幸な歴史だったし、物事の基準も今とは大分違った」

老人の名はヘンリー・ケズウィック、82歳、190年近い歴史を誇る国際コングロマリット(複合企業)、ジャーディン・マセソンの名誉会長で英国有数の資産家だ。

 そして彼が長年の「親友」と呼び、家族ぐるみの付き合いをしてきたのが、安倍内閣に続き、菅内閣でも副総理兼財務大臣の座にある麻生太郎であった。

 政治家・麻生太郎を形容するのに、よく「政界のサラブレッド」という言葉が使われる。千賀子夫人の父は鈴木善幸元総理で、母方の祖父は吉田茂元総理、その岳父は明治の元老・牧野伸顕で、さらに遡れば「維新の三傑大久保利通まで行き着く。また妹の信子は寛仁親王に嫁いで皇室も縁続きになっており、まさに“エスタブリッシュメント”“華麗なる一族”と言っていい。

 だが吉田・麻生家の系譜を見る時、もう一つ、決して見逃せない重要な役割を果たしてきた一族がある。

 彼らなくして吉田茂麻生太郎という二人の総理は誕生せず、今の自民党、いや日本の政界も全く違ったものになったはずだ。

 そして明治維新以来、両家は親から子へ、子から孫へと脈々と絆を受け継ぎ、水面下のコネクションを維持した。それがジャーディン・マセソンと、その経営を代々担うケズウィック家である。

 言い換えれば、これら二つの一族の歩みを追う事で、この国の歴史と政治家・麻生太郎の今と未来が浮かび上がってくる。

 日本の歴史、それも幕末以降の近代史に興味がある人なら、ジャーディン・マセソン商会の名前は聞いた事があると思う。

 同社は1832年、ウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンというスコットランド出身の貿易商により、中国の広東で設立された。当初は中国のお茶やインドのアヘンを扱ったが、清朝がアヘンの密貿易を禁じると、英国議会に政治工作して英海軍を派遣させ、1840年アヘン戦争が勃発した。

 この結果、中国は武力で屈服させられ、香港は英国に割譲されるのだが、ジャーディン・マセソンは香港を拠点に船舶や運輸、金融などに多角化、国際複合企業に成長する。また幕末から日本に進出し、討幕派の薩摩や長州に武器を売却、“明治維新の黒幕”とも形容された。

 文字通り、世界史を変えてきた会社で、やがて同社の経営はジャーディン家と姻戚関係のケズウィック家に移り、私の目の前にいるヘンリーは、その4代目に当たる。

 そして、この一族と数世代に亘って密接な関係を維持してきたのが吉田・麻生家で、物語は今から約160年前、横浜の地から始まった。

 1859年、安政6年の7月のある日、横浜の沖合に停泊する帆船トロアス号のデッキで、一人の英国人青年が陸地の方を凝視していた。ようやく辿り着いた新天地だというのに、目に映るのは、一面に広がる沼地と藁葺き小屋の寒村である。何とも言えない物哀しさだが、ここが交渉の末、徳川幕府が認めた貿易の拠点なのだ。

 青年の名前はウィリアム・ケズウィック、その4年前にスコットランドから中国へ渡り、ジャーディン・マセソン商会で働いていた。

 米国の東インド艦隊のマシュー・ペリー提督率いる軍艦が来航し、開国を迫ってからすでに6年が過ぎた。巨大な黒船に狼狽した幕府は要求に応じ、日米和親条約を結ぶが、その後も欧米は日本との貿易を求め続ける。その結果、1858年に修好通商条約が結ばれ、米国や英国などが横浜を含む港で貿易を認められた。

 これを機に、一攫千金を狙う外国商人が一斉に来日するが、その先陣の一人がヘンリー老人の曾祖父でジャーディン・マセソンの若手、ウィリアム・ケズウィックだった。

 そして、ケズウィックが横浜に着いたのと同時期、もう一人、スコットランド出身の青年が日本でのビジネスを夢見て長崎に上陸した。彼の名前はトーマス・グラバー、このグラバーという名前も聞き覚えがある人は多いと思う。

 長崎でジャーディン・マセソンの代理店のグラバー商会を設立、討幕を目指す薩摩や長州、土佐の坂本龍馬に武器を売り込み、明治維新の推進役になった。後にジャーディン・マセソンは、当時の記録を英ケンブリッジ大学の図書館に寄贈、研究者の閲覧を認めたが、そこには長崎でのグラバー、横浜、上海でのケズウィックの活動が詳細に記述されている。

 その意味で、冒頭の「私の曾祖父は日本の明治維新を組織した」という言葉は独特の凄みがある。だが、私がジャーディン・マセソン明治維新の繋がりを実感したのは8年前、同社のオフィスを訪ねた時であった。

 ロンドンの金融街、ロンバード街3番地にある重厚な建物の会長室に通され、ヘンリー・ケズウィックと対面した際、彼が何気ない口調でこう呟いたのだ。

「おそらく、伊藤もここに来たのかもしれないな」

 開国か攘夷かで国論が二分され、外国人襲撃も相次いだ1863年長州藩の若者が横浜のジャーディン・マセソン接触してきた。幕府の禁制を犯して英国に留学したいので、支援して欲しい。見つかれば死罪の恐れもあるが、ぜひ向こうで鉄道や造船、造幣など西洋の知識を身につけたいという。

 これが若き日の伊藤博文井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三、いわゆる「長州ファイブ」で、いずれも後に明治政府で初代総理大臣や外務大臣など要職に就く。彼らはジャーディン・マセソンが手配した船で英国へ渡り、ロンドンの大学で学ぶが、それを支援したのがウィリアム・ケズウィックら当時の経営幹部だった。

 徳川幕府が倒れて新政府ができれば、この男は将来、日本の総理大臣になるかもしれん。その時、わが社の投資は必ず生きる。留学支援の労を惜しむべきではない。ひょっとしたら役員会で、こんな会話があったかもしれない。

 当時、長州ファイブを世話した同社の兄弟会社の住所はロンバード街3番地、たしかにここに伊藤が来ていてもおかしくない。明治維新の黒幕か……そう考えた時、思わずハッとして会長室の内部を見回したのを覚えている。

 同時に驚かされたのは、これら幕末の物語に登場する人物の若さである。

 ウィリアム・ケズウィックが横浜で事務所を開いたのは25歳、トーマス・グラバーが来日し、伊藤博文が英国に密航したのは共に21歳といった具合だ。日本の近代史の転機になった明治維新は、これら野心と冒険心に富んだ若者たちの邂逅で生まれていったのだった。

 そして維新から2年経った1870年の秋、煉瓦造りの洋館が建ち並んで変貌した横浜に、ある福井藩出身の青年が現れた。

 彼もまた時代の熱に引き寄せられた一人で、やがてジャーディン・マセソンに入社、日本の歴史で重要な役割を担う。青年の名前は吉田健三、吉田茂元総理の養父である。

 戦後の日本の針路を定めた宰相として、吉田茂の名は広く知られる。敗戦による占領期、反抗的と言える態度で連合国軍総司令部GHQ)に立ち向かい、軽武装・経済中心主義を根付かせた。その薫陶を受けた佐藤栄作池田勇人ら後進の政治家は「吉田学校」と呼ばれ、自民党の中核を担っていった。

その吉田の生い立ちを、孫の麻生副総理は著書『麻生太郎の原点 祖父・吉田茂の流儀』でこう記している。

「祖父、吉田茂には二人の父がいる。実父は土佐の自由党の志士だった竹内綱(たけのうちつな)。養父は越前福井藩藩士の末裔(まつえい)で、貿易商として一代で財をなした吉田健三。二人は大の親友で、一人も子どもがいなかった吉田健三に『今度生まれる赤ん坊が男の子だったら君にあげよう』と竹内綱が申し出るほどの仲だった」

 そして、その約束は実行されるのだが、健三は長崎などで英語を学び、1870年代、横浜のジャーディン・マセソンで働いていた。

「彼は海外から商品を買いつけ、日本からはさまざまな物産を輸出する、いわゆる商取引に抜群の才をあらわした。扱った商品は生糸から軍艦までというから、今でいえば商社マンということになろうか。ジャーディン・マセソン商会から独立した吉田健三は、海運代理業をはじめ数々の事業を興し、そのことごとくを成功させた」(同書)

 だが成功した実業家の健三は、1889年、40歳の若さで病死する。そして早世した養父の遺産、一説には50万円、現在の貨幣価値で約30億円もの資産を相続したのが、わずか11歳の茂で、それを完全に食い潰してしまったのだった。

「養父の遺産を継いだ祖父の生活スタイルは派手であり、かなり目立ったという。学生の身でありながら東京に家を構え、馬に乗って通学したのである」

 だが、これまで謎だったのは健三が同社に入社した経緯である。それがきっかけで、今に続く吉田・麻生家とケズウィック家の絆が生まれるのだが、その答えは、ロンドンの英国立公文書館が保管する文書から見つかった。

 明治維新直後、江戸から名称が変わったばかりの東京で、若い吉田健三は何と、詐欺で告発されたのだ。その彼を助けたのがジャーディン・マセソンで、この裏には、日本と英国の国際問題に発展した巨額詐欺事件が絡んでいた。

 英外務省の記録によると、事の顛末は次の通りである。

 1870年11月、横浜のジャーディン・マセソン商会に川越藩から、ある商談が持ち込まれた。同藩は、今の埼玉県川越市が拠点で、江戸の北の守りとして幕府は代々、有力大名を配置した。その物産総括を名乗る、天野恕一という男が蒸気船1隻の購入を注文、年末には契約書も作られ、川越藩から支払いを待つだけとなった。これが完全な詐欺だったのだ。

 英外務省によると、天野の蒸気船購入を藩は承認しておらず、おそらく私的なビジネスに使って一儲けを狙ったという。ジャーディン・マセソンはハリー・パークス駐日英国公使に直訴し、川越藩に支払いを求めたが相手は拒否、裁判沙汰になった。そして天野の商談の通訳を務め、共犯として告発されたのが吉田健三であった。

 吉田の調書が英訳されて残っているが、彼も、よもやこれが詐欺とは夢にも思わなかったという。

「自分は、この蒸気船は蝦夷(えぞ)や大阪との間の交易に使うと聞かされ、天野が藩の名前を借りたとは知りませんでした」「不注意な通訳をしてしまい、慙愧に堪えません」

 そして吉田は、ジャーディン・マセソンに自分の扱いで当局に働きかけるよう訴え、同社も協力に同意した。元々は商談を通訳しただけで、詐欺の責任を問うのは酷と判断したようだ。

 そして、この事件はジャーディン・マセソンにも貴重な教訓を残した。新政府が発足したとはいえ、国内統治は未整備で、怪しげな商談などトラブルも相次いだ。そこでは現地の情報を集め、相手の信用度を見抜く、今で言うデューデリジェンスが必要だ。

 現に仲裁に当たった駐日英国公使館も、「仮契約前、もう少し慎重に調べれば、天野の正体に気づいたはず」と批判している。それを身に染みて学んだ吉田はまさに適任で、直後から同社で働き始めたのを見ると、事件が採用のきっかけとするのが自然だろう。

日ユ同祖論 | Far East Alexandria

一神教を弾圧したアレクサンダー大王
角を生やした兜を被った事で知られ、
イスカンダル双角王と呼ばれました。