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一般のお七夜にあたる「命名の儀」で、お名前とお印が決められた眞子さま秋篠宮ご夫妻が学者らとご相談のうえ、お名前をお決めになられた。「眞(シン)」には「自然のまま、ありのまま」の意味が込められており、秋篠宮さまは「自然に飾ることなく、人生を歩まれる」ことを願って命名された。

「感情ゾーンの肉付きが良い人の特徴として、周囲からどう見られているかを気にする傾向が強いです。小室さんの気になるところは、肉付きは良いけれど、ハリが少し弱いこと。そうした方は、自分の承認欲求が満たされていて、人から良く見られている状況下においてはとてもポジティブでいられます。しかしネガティブな批評をされると、耐えうるだけのキャパシティがあまりないと言えるでしょう」

人の目を気にする傾向があるとするなら、長期に渡る小室さんへの風当たりの強さはかなり堪えているのだろうか。

「右目の黒目と下まぶたがくっついておらず、いわゆる三白眼のようになっています。以前はそうでもなかったのですが、それが強くなってきている。これはまさに精神的に疲れていることを表しているので、いまは限界の状態なのかもしれません。また、意外に思われるかもしれませんが、小室さんは相貌的にみると計算高いタイプではありません。万人によく思われたいという承認欲求が高い方なので、いまの状態は彼にとってかなり辛いはずです」

相貌心理学的見地では、承認欲求が高いにも関わらずバッシングを受け、精神的に堪えているという分析結果だった小室さん。では母の佳代さんはどうなのだろう。

「佳代さんは活動ゾーン(唇から顎先)がしっかりしているので物質主義的なところがあります。物事をメリット・デメリットで考えるタイプの人です。そっくり親子に見えるかもしれませんが、相貌的には全然違います。どちらかというとお母さんの方が計算高く、自分のメリットを常に考えているタイプ。小室さんは「みんなの憧れのプリンス」になりたい、理想主義的なタイプ。だからこそ今の状況は不本意で、承認欲求も満たされておらず、彼のなかでは最悪な状態と言えます。小室さんはかなり葛藤されているのではないでしょうか」

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#天皇家

 この和子を知るのが、前篇のインタビューに登場したケズウィック家4代目、ヘンリー・ケズウィックだ。そのヘンリーが、ちょっとしたエピソードを教えてくれた。

「うちの祖父は昔、駐日英国大使だったんだが、母は若い頃、麻生和子と遊んでいたそうだ。和子と英国との結び付きは極めて強かったな」

 じつはヘンリーの母方の祖父フランシス・リンドリーは、昭和初期に駐日大使を務めた外交官で、娘のメリーも来日した。和子と同年代で、大使の父を持つ者同士、気が合ったのかもしれない。そのメリーと結婚したのがヘンリーの父、ケズウィック家3代目のトニー・ケズウィックだった。

 明治から大正、昭和と移って、糸が絡み合うように両家の絆が深まっていくのが分かる。

 やがて戦火が広がる中、彼らはどうやって事態を乗り越えようとしたか。それを物語る二つの機密解除文書がある。

 一つは、上海のトニー・ケズウィックからロンドンの幹部に宛てた書簡である。日付は1939年9月29日、ドイツ軍のポーランド侵攻で第2次大戦が起きて約1カ月後だ。文面には「中国における日本、ジャーディン・マセソンへの影響」とのタイトルがあった。

 すでに当時、中国の主要な港湾は日本軍が押さえ、かつてのように自由な貿易はできなくなっていた。このままでは、19世紀から築いてきた権益を全て失いかねない。幹部たちが焦燥を強める中、日本軍から一つの提案が持ち込まれた。ジャーディン・マセソンと日本軍、三井、三菱で共同の貿易会社を設立してはどうか、という。

 必要な船舶や港の手配、利益の送金など支援も約束された。国際的に孤立した日本は英国の、それも歴史ある会社をパートナーにイメージを改善、ジャーディン・マセソンも中国に留まり商売ができる。いわば、ウィンウィン(持ちつ持たれつ)という訳だ。

 だが、それは同社にとって、本国で“裏切り者”と非難される危険も意味した。実際、提案を知った英外務省は警戒感を露わにしたが、それでも、上海のトニー・ケズウィックは幹部に決断を促している。

「これは緊急事態であり、決断を遅らせても解決になりません。優柔不断は、中国での英国の利益にすでに十分な損害を与えました。われわれは中国に留まり貿易を続ける決意で、問題は、その最善の手段は何か、なのです」

 もう一つは、このトニーの弟で、同じくジャーディン・マセソン幹部のジョン・ケズウィックの文書だ。日付は太平洋戦争中の1942年10月15日、2ページの書簡に「中国・開(かい)ラン炭鉱の破壊」とタイトルがある。

 開ラン炭鉱とは河北省にある中国有数の炭田で、戦争中は日本軍の支配下に置かれた。そこへ工作員を潜入させ、または空爆で破壊すべきだという。

「この炭鉱の生産量は年間500万から600万トンに達し、日本の年間消費の約12パーセントに相当します。中でも、コークス用炭の消費の半分は開ランからで、これを攻撃すれば戦争遂行能力に重大な意味をもたらします」

 また坑内の湧水を排出するには常にポンプを動かさねばならず、

「これを48時間無力化すれば、坑内は水没して1年は生産できなくなるでしょう」

 およそビジネスマンと思えない物騒な文面だが、じつは当時ジョンは、英軍の特殊作戦執行部(SOE)に所属していた。SOEは戦時中に設立された組織で、枢軸国の支配地に潜入し、諜報や破壊活動を行う。その中国担当の彼は、日本の戦略物資を叩く作戦を提案したのだった。

 これらトニーとジョン、ケズウィック家3代目の兄弟が残した文書を読むと、その行動原理が分かって面白い。

 日中戦争で会社存亡の危機に瀕した時、彼らは日本軍と組んでも商売を続ける決意をした。決して日本を支持はしないが、中国から撤退するよりはるかにましだからだ。それは、トニーの書簡のthe lesser of two evils(二つの悪のうちでましな方)という言葉で分かる。

 だが、いざ戦端が開いて敵同士になれば、全力を尽くして戦うのみだ。そのため長らく中国で活動したケズウィック家の知識を惜しみなく提供する。この現実主義と柔軟性は、かつて徳川幕府から討幕派の薩摩と長州に乗り換え、武器を提供した初代、ウィリアム・ケズウィックを彷彿とさせた。

 1945年の夏、日本の無条件降伏でようやく戦争は終わり、ジャーディン・マセソンも活動を再開し始める。そして、この頃、彼らのビジネスの水先案内人と呼べる日本人が現れた。その男は吉田・麻生家と親しく、政財界にコネクションを持ち、日本での強い援軍になってくれた。

 それが吉田内閣の“ラスプーチン”と呼ばれた男、白洲次郎である。この白洲の名前を知る人も多いと思う。

 芦屋の裕福な実業家の家に生まれ、英国留学を経て戦前は近衛文麿総理のブレーン、戦後には吉田茂総理の側近を務めた。新憲法制定などでGHQと折衝し、通商産業省の創設にも関わった。

 1951年3月、ロンドンの事務所に移っていたトニー・ケズウィックに、東京支店から書簡が送られてきた。日本の国内情勢の報告だが、その中に「只見川水力発電計画」というのがある。

 近く電力業界が再編され、東北電力という会社が生まれる。その会長になる白洲は、福島の只見川で水力発電所を計画し、これに英国企業も参加させるべしという。そして吉田側近の白洲を「日本で最も影響力のある一人」とし、その政治力に期待をのぞかせていた。

 このトニーの息子で、後にジャーディン・マセソン会長になるのがヘンリーだが、彼も白洲次郎と面識があったらしい。

「戦後のうちと日本との結び付きは白洲、そして麻生和子だった。これまでの私は、良きアドバイザーに恵まれたと思う。自分のために動いてくれる賢明な人々を持つのは大切だ。今でも麻生家は親しい友人で、もし日本で大きな問題が生じたら、太郎に助言を求めるだろう。副総理と財務大臣を兼ねるのは極めて強力な地位だからね。もっとも、今は日本企業と組んでインドネシアなどでビジネスをしており、問題は抱えていないが」

 そして、このヘンリーの言葉は、じつはジャーディン・マセソンの歴史にとって重大な意味を持つ。19世紀以来、アジアでの成長を陰で支えてきた集団、コンプラドール」である。

 かつて帝国主義の全盛期、欧米の商人は競って中国に進出したが、そこで彼らは厄介な問題に直面した。言葉や商慣習の違い、有力者とのパイプ不足で、それを克服できるかどうかがビジネスを左右した。そこで、助け舟を出したのが「コンプラドール」だった。

 英語に堪能で、有力者との仲介を担う中国人で、当然、その働きに応じた報酬も支払われる。それを元手に商売を始め、短期で巨額の資産を築く者も現れたという。

 こう書くとすぐ“外資の手先”と非難するのもいるだろうが、話はそう単純ではない。じつは、中国のコンプラドールも歴史的評価は分かれる。ある者は中国の植民地化の手先とし、ある者は近代化の功労者とする。おそらく、その両方共に正しく、真実は中間辺りにあるのだろう。

 この意味で明治維新直後、ジャーディン・マセソンで働いた吉田健も、そうした一人だったと言える。

 前篇で述べたように、元福井藩士の健三は入社後、新政府との折衝で活躍、巨額の報酬を手にした。それを元手に事業を起こし、養子の茂が受け継ぐ財産を築く。やがて成長した茂は自民党の「吉田学校」を生み、今の政界につながる道を開いた。

 いわば、日本の歴史を作ったコンプラドールで、健三なしに子孫の麻生副総理はむろん、安倍内閣菅内閣もなかっただろう。

 興味深いのは、吉田茂が総理在任中、ジャーディン・マセソンとの関係を隠そうとした節もある事だ。

 1954年10月、吉田は欧米歴訪の途中で英国を訪れるが、滞在中、週末をエセックス州のトニー・ケズウィックの別荘で過ごした。それを当時の新聞は一切報じず、英外務省の記録では、ここで吉田は三井絡みのビジネスを話し合っている。総理自ら、民間の商売に介入しようとでもしたのか。そして日本の外務省による日程表では、ケズウィック邸訪問に「此の項発表せず」との注意書きがあった。

 幕末に来日したウィリアムから4代目、ヘンリー・ケズウィックも現在82歳、一昨年には甥のベン・ケズウィックに会長職を譲り、第一線から退いた。その彼が昨年夏、ロンドンの自宅で会った際、何気ない口調で「太郎は、あとどのくらい続けられるだろう」と訊いてきた。

 前篇で述べたように、彼と麻生太郎は若い頃から親友で、家族ぐるみの交際をしてきた。その麻生もすでに80歳、そろそろ政界引退も囁かれ始めた。その後継者がいつ、誰になるか、噂や憶測も出ているが、ここでヘンリーが意外な人物の名を口にした。麻生の長女の彩子である。

 彩子は東京大学を卒業後、英国に留学、その後出会ったフランス人と結婚したが、彼女の後見人的存在なのがケズウィック家らしい。ソファに深く腰を降ろしたまま、ヘンリーが穏やかな笑顔で続ける。

「彩子はフランス人と結婚して、今、パリに住んでるが、英国に来たらわが家で世話をするようにしている。つい最近も週末、子供たちを連れてうちに泊まっていったよ。私が見たところ、彩子は非常に頭が切れるし、精神的にもタフだ。いつか政界入りすれば、有力な政治家になれると思う。彼女が日本の総理大臣になれるよう願っているよ」

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【宇野正美】トランプ×バイデンの行方。ワ〇〇ン利権とコロナ。「講演会」2020年。

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