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1月24日放送の第42回までの数回の『麒麟がくる』を視ていると、最新研究では誤りとされる「朝廷黒幕説」に依拠して本能寺の変を描こうとしているように思えてならない。

たとえば、織田信長(演:染谷将太)が正親町天皇坂東玉三郎)に譲位を強要したことに対し、三条西実澄(石橋蓮司)が憤慨した場面などは、信長と朝廷の対立を描いて黒幕説を暗示した好例といえるだろう。

以下、「朝廷黒幕説」の誤りについて解説しよう。

最初に「朝廷黒幕説」がいかなる説かを一言で言えば、織田信長が朝廷を圧迫したので、危機感を抱いた朝廷が明智光秀長谷川博己)に信長を討つよう命じたというものである。

重要なのは、朝廷サイドが光秀に「信長を討て」と命じた書状が存在せず、関係者の日記などにそういう趣旨の記述もないことだ。あくまで状況証拠から迫った説に過ぎない点に注意すべきである。

朝廷黒幕説が成り立つための前提として、「信長が朝廷を圧迫した」という事実が必要である。主に次の3つの信長の行為が該当すると考えられている。

(1) 天正元年(1573)に信長が正親町天皇に譲位するよう申し入れたこと。

(2) 天正9年(1581)、信長が正親町天皇を招いて京都で馬揃えを行ったこと。

(3) 天正10年(1582)、信長が宣明暦に代えて美濃・尾張の暦の採用を迫ったこと。

なぜこの3つの行為が「信長が朝廷を圧迫した」ことになるのか、簡単に説明しておこう。

(1)は信長が譲位を申し入れたので、不本意正親町天皇が困ったということである。

(2)は正親町天皇に信長軍団の軍事パレードである馬揃えを見せつけて、圧倒的な軍事力で驚かせた(信長には逆らえないとビビらせた)ということである。

(3)は暦を決めるのは朝廷の専権事項だったので、信長が変更を迫るのは不遜な越権行為だということになる。

結論を先取りすると、上の3つの「圧迫行為」の指摘は誤りであり、「朝廷黒幕説」は成り立たないというのが近年の学界における共通認識である。以下、前提となる圧迫の事実を1つずつ取り上げて、「朝廷黒幕説」の誤りについて解説することにしよう。

まずは、(1)である。

天正元年(1573)12月3日、信長は正親町天皇に、譲位を執り行うよう申し入れを行った(『孝親公記』)。正親町天皇は信長からの申し出を受け、関白・二条晴良(小藪一豊)に譲位の時期を検討するよう勅書を遣わしたので、快諾したと考えられている。

勅書を受け取った晴良は、信長の宿所をすぐに訪問すると、信長の家臣の林秀貞正親町天皇が譲位を希望している旨を申し伝えたのである。

現代において上皇による院政は「悪」と思われているが、当時はそうではなかった。むしろ平安時代院政期以降、天皇は早々に皇太子に位を譲って上皇となり、院政を敷くのが当時のスタンダードだった。

ところが、応仁・文明の乱以降になると式典の経費の負担が朝廷の財政に重くのしかかり、新天皇が即位した後すぐに即位式を行えないことが常態化した。そのため、しばらく譲位は行われなかったのである。

実際に後土御門天皇正親町天皇の前の3人の天皇は、生前に皇太子に天皇位を譲ることなく、現役の天皇のまま亡くなった。それは当時の人々にとって、驚くべき事態だった。

実は、正親町天皇は信長から譲位を勧められ、

後土御門天皇以来の願望であったが、なかなか実現に至らなかった。譲位が実現すれば、朝家再興のときが到来したと思う」

と好意的な感想を述べている(「東山御文庫所蔵文書」)。

信長から勧めてきた話しなので、おそらく費用も援助してくれることになったのだろう。正親町天皇がは、譲位が実現し伝統が復活することを大変喜んでいるのは明らかである(結局、このとき譲位は実現しなかった)。

結論として、信長は正親町天皇に譲位を迫ったのではなく、むしろ勧めたというほうが正しい。それは一部の論者が指摘するように、信長が嫌がる正親町天皇に譲位を迫り、窮地に追い込んだものではない。事実は逆で、譲位を望んでいたであろう正親町天皇の積極的な意を汲んで、信長が勧めたと考えてよいだろう。

次に、(2)の馬揃えである。

天正9年(1581)1月23日、信長は明智光秀に対し、京都における馬揃えの準備を命令した(『信長公記』)。馬揃えとは信長軍団の軍事パレードのようなもので、軍事力をアピールする大規模な催しだ。そして同年2月28日、信長は正親町天皇を招き、禁裏(京都御所)の東門外で壮大な馬揃えを行ったのである(『御湯殿上日記』など)。

馬揃えに参加した武将は約700名といわれ、騎馬武者の衣装も豪華で壮麗だった。見物人は約20万人も集まったというので、世間の注目は大きかった。信長が馬揃えを行った目的は、いかなる点にあったのか。『信長公記』には、

「天下(=畿内)において馬揃えを執り行い、聖王への御叡覧に備える」

と記されている。信長の本当の目的は、天下(=畿内)が治まりつつある状況下で、馬揃えを正親町天皇誠仁親王(加藤清史郎)の叡覧に供することだった。

その結果、

「このようにおもしろい遊興を正親町天皇がご覧になり、喜びもひとしおで綸言を賜った」

と書かれているので(『信長公記』)、天皇が大喜びだったのは疑う余地がない。

また、堀新氏の研究(「織田権力論の再検討」『織豊期王権論』校倉書房)によると、誠仁親王の生母・新大典侍天正8年(1580)12月29日に亡くなったので、そうした沈滞ムードを破るべく朝廷側から信長に馬揃えの開催を要望したとされる。このように、信長は生母を亡くして落ち込む誠仁親王を励まそうとしたという説もある。

つまり、信長が馬揃えを挙行したのは、朝廷に対する圧迫ではなく、むしろ天皇親子を喜ばせたり、励まそうとしたのが本意だったようだ。

最後は(3)である。

天正10年(1582)1月、信長は朝廷の陰陽頭・土御門久脩が作成した宣明暦(京暦)の代わりに、美濃・尾張などで使用されていた暦の採用を要望した(『晴豊記』など)。朝廷が決定権を持つ暦について、武家が口出しし介入するのは極めて異例でもあり、これまでは信長が朝廷を圧迫した証拠として解釈されてきた。

宣明暦は天正11年(1583)正月を閏月に設定していたが、信長が推す暦は天正10年12月を閏月としていた。信長は自身が推す暦のほうに合わせ、天正10年12月を閏月に設定するよう朝廷に強く要望したが、変更を求めた理由は伝わっていない。

しかし、宣明暦には大きな問題があった。たとえば、日食や月食があるとの記載があっても、実際には起こらなかったことがたびたびあり、必ずしも正確ではなかったようだ。

当時、人々は日食や月食を不吉であると考え、その光に当たることを恐れた。朝廷では日食や月食が起こると、筵(むしろ)で御所を覆うようにし、不吉な光から天皇を守ったといわれている。そのためには、日食や月食がいつ起こるのか事前に知っておく必要があった。

天正10年2月、信長の要望を受けて朝廷内で検討した結果、宣明暦を採用する方針を変更せず、そのとおりに天正11年正月に閏月を設定(『天正十年夏記』)。結局、信長の要望は叶えられなかった。いったん信長は納得したが、死の直前にこの問題を再び持ち出した。

本能寺の変の前日の同年6月1日、公家衆が信長の滞在する本能寺を訪問すると、信長は公家衆に対して、宣明暦を変更するよう再び要望した。このときも理由は明確に伝わっておらず、長らく謎として議論されてきた。

桐野作人氏の研究(『だれが信長を殺したのか』PHP新書)によると、信長が自身が推す暦にこだわった理由は、宣明暦が同年6月1日の日食を予測できなかったからだと指摘されている。

結論を言えば、信長は予期せぬ日食を確認して宣明暦の不正確さを改めて悟り、天皇を不吉な光から守るため、暦の変更を強く主張したという。この考え方が正しいならば、信長は天皇の身を心配したのであって、自身が慣れ親しんだ暦の使用を強要したわけではない。

しかし、さらに遠藤珠紀氏の研究(「天正十年の改暦問題」『日本史の森をゆく』中公新書)では、近衛家に残っていた天正10年の宣明暦(『後陽成院宸記』紙背)は6月1日に日食になることを予報していたと指摘された。日食の日を宣明暦が正しく予報していたならば、そもそも信長が暦の変更を要望した理由は見当たらないことになり、話は振り出しに戻ってしまう。

いずれにせよ、信長が朝廷を圧迫した事実は見当たらない。

当時、各地の大名が支配領域内の暦の統一を行っており、信長もその必要性を痛感し、身近だった尾張の暦の使用を要望したと考えられている。そのため、暦の問題は必ずしも信長と朝廷の対立へと収斂させる必要はないという。

以上のとおり、「朝廷黒幕説」の論拠となる「信長が朝廷を圧迫した」という事例はすべて誤りとされているので、説自体が成り立たないのは自明である。

麒麟がくる』でもう1つ懸念されているのは、光秀と足利義昭滝藤賢一)との近しい関係である。本能寺の変の黒幕説の1つとして、足利義昭黒幕説」なるものもあり、ドラマではそちらが採用される可能性がある。

たとえば、光秀が鞆に滞在中の義昭のもとを訪れ、義昭に「光秀のいる京都なら行ってもよい」と言わしめたのは一例である。紙数の関係でこちらは紹介できないが、当該説も史料の誤読が原因の誤った説で、学界ではすでに否定されている。

フィクションであるとはいえ、誤った説に拠って歴史ドラマが展開するのは個人的にいかがなものかと思うが、視聴者はどうお考えなのだろうか。

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[麒麟がくる] 第43回 まとめ | 闇に光る樹 | 5分ダイジェスト | NHK

春秋戦国時代の中国。秦の始皇帝の母、李皓ランの波乱に満ちた人生を描く愛と闘いの物語。蛟(こう)王子が王座を奪う謀反を起こす。混乱の中、晧ラン(こうらん)は…。

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