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「そもそも秋篠宮ご夫妻は、なぜこれ程までに学習院を避けてこられてきたのでしょうか。ご夫妻は共に学習院大学在学中に知り合われ、ご結婚に至りました。秋篠宮紀子さまの父・川嶋辰彦さんはかつて学習院大学経済学部の教授を務め、現在も名誉教授の称号をお持ちです。

 一方で長女の眞子さまは幼稚園から高校までは学習院でしたが、大学はICU国際基督教大学)を選ばれ、次女の佳子さまも学習院大学まで進まれましたが、中退してICUに進まれました。悠仁さまに至っては、幼稚園からずっとお茶の水女子大学附属です。学習院とは一切、関係を持たれたことがないのです。

 学習院の起源は幕末に京都に設けられた公家のための教育機関です。明治期に入り、華族のための教育機関として学習院が創立されました。後に大正天皇となる嘉仁(よしひと)親王が1887(明治20)年、学習院の初等学科(現・初等科)に入学した際、首相の伊藤博文が箱型のランドセルを特注し、献上したのが皮革製ランドセルの始まりというのは有名な話です。昭和天皇学習院初等学科で学んでいます。上皇陛下は初等科から大学まで学習院ですし、天皇陛下は幼稚園から大学まで学習院です。歴代天皇が通った学習院悠仁さまは一度も通うことなく終わられてしまうのでしょうか」

 天皇家の長女・愛子さまが2008年に学習院幼稚園から初等科に進まれたとき、学習院指定の老舗鞄メーカー「大峽(おおば)製鞄」製のランドセルが話題になったこともあった。大峽製鞄のランドセルは数々の皇族方も使用された伝統の品だ。

 前出の学習院大学OBが話を継ぐ。

悠仁さまは2014年10月、生前退位前の上皇上皇后両陛下の80歳を記念した特別展をご覧になった際に、上皇陛下が学習院初等科時代に使われていたランドセルを見学されたことがありました。愛子さま大正天皇が始まりとなった皮革製ランドセルを背負って大正天皇昭和天皇上皇陛下、天皇陛下と同様に学習院に通われました。歴代天皇の伝統を継承しているという点において、愛子さまにも天皇としての資質や適性があるようにさえ思えます。

 悠仁さまがランドセルを背負って学習院に通うことはもちろんもうありませんが、学習院高等科に進まれなければ、このまま学習院と縁を持つことはないのかもしれません。歴代天皇が通った学習院の雰囲気を全く知らないまま、悠仁さまが天皇になられるというのは我々学習院のOB、OGにとってとても残念なことです」

 悠仁さまが来春、学習院高等科を選ばなかった場合、もう一つ大きな問題が出てくる可能性がある。お茶の水女子大学側も附属校の警備について徐々にノウハウを蓄積してきていたが、それが再びゼロからのスタートとなる点だ。

 眞子さまICUで小室圭さんと出会われた。秋篠宮ご夫妻の、お子さまの意思を尊重される教育方針も十分理解はできるものの、その教育方針が悠仁さまの刃物事件や眞子さまのご結婚延期問題を引き起こす“遠因”になっていることも事実だろう。

 男系男子の皇位継承を絶対視する人達の中にも、皇室とのつながりが深い学習院を忌避し、皇室の伝統を踏襲されない秋篠宮ご夫妻のご姿勢に疑問を感じる向きもあるようだ。悠仁さまを「(上皇上皇后)両陛下からお預かりした大切な命」と表現されているとされる紀子さまが、警備の問題を軽視されているように受け取られるのも得策ではないはずだ。

学習院が皇室の伝統を守るために果たしてきた役割を、改めて思い起こして欲しいのです。とにかく秋篠宮家の“学習院離れ”を方針転換していただき、悠仁さまの進学先を学習院高等科にしていただきたいのひと言です」(同前)

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#天皇家

池のすぐ近くに祀られている「大国主命」に話しを聞きに行きました。

国産み、国譲りの話しは何段階にもその本質を隠し、真偽がわからない様に変えられているからこそ、真実はあなたたちの魂に記憶があるとお伝えしておきます。

・出雲から来た巫女・・・ここにいる巫女は出雲から来た巫女だけではないが、出雲の巫女が解って欲しい事がある。
・他の古くからいる巫女は、ここにはない。
・近年の巫女にも能力があった、出雲の巫女だけは男に連れて来られた。
 ※出雲神の子を中心にお詫びと和合の祈りを行いました。

質問)この地に入って来た、民達の順番を教えて下さい。

あなた達が「安房族」と呼んでいる民達が最も古いと言えましょうか。

それが、あなた達がわかっている範囲での事ですが、その民達を引き連れて来た、手伝ったというべき民達が「物部」であり、その次、もしくは、その次の供(とも)となり、導きを先導した者が「大国主の一団」であり、他のそれぞれの中国・支那・台湾系の秦氏と呼ばれる方々もそれぞれ来ておりましたが、徒党を組む程の力はなく、それぞれが協力し合って生きておりました。

忌部氏」の方々は物部の方々よりも古い時代に来られましたが、そこには神官と呼ばれる男神守りがおり、その周りに女性達がいるような形で我々も驚きましたが、共に神を守る意味を理解し、力を合わせた部分も御座います。

質問)巫女さま方が、一番最初にこの地に入っていらっしゃったのですか?

あなた方の言う「太陽神信仰」ではなく、本来、最も大きな神の繋がりを創るために動いたという事は解っていると思います。

質問)この地で行われた「国譲り」について、ご存知ですか?

それは、大国主を含め、関連する男達の神場争い、土地争い、権力争いの事で御座いましょうか?

わたくしめ達の中にもその一部の巫女もおりまするし、時によればその敵側の巫女もおりまするが、統合・平定をする時に、それぞれの巫女の代表達を集め、守り、支え、束ねたところが、ここで御座います。

その守り役をする大番としての大母の役目をさせて頂いておりまするが故に、その力は大きく、どの神々の神官とも繋がりがあるのは確かで御座います。

ひとつに、鹿島と香取について、「鹿島は元々いた民」と言った方がいいでしょうか。

早くに、この地に繋がりを作った者達で御座いますが、それより少し遅れて、「香取の民達」がたどり着きました。

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天津甕星(あまつみかぼし)は、日本神話に登場する星の神である。別名、天香香背男(あめのかがせお)。星神香香背男(ほしのかがせお)、香香背男(かがせお)。

経津主神(ふつぬしのかみ)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかった。そこで倭文神(しとりがみ)・建葉槌命(たけはづちのみこと)を遣わし懐柔したとしている。

「カガ(香々)」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであると考えられる。神威の大きな星を示すという。

星や月を神格化した神は世界各地に見られ、特に星神は主祭神とされていることもある。 しかし、日本神話においては星神は服従させるべき神、すなわち「まつろわぬ神」として描かれている。これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説がある。

全国の星神社や星宮神社の多くは天津甕星を祭神としている。

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一神教は、白を黒く塗り潰して、黒いからダメだとする。
それが、復活すると、このように輝きを放つとしたらどうだろうか。

香香背男(かがせお)大神のメッセージ

いさましや、国を守りしお前たちの思いは分っておるぞ。

国を守りしこと大切なことだが、そこにおける争いごとに巻き込まれぬよう上手に神事をなせよ。

心囚われず、女心掴まず、思いに諭されず、思いクリアーにしなければ囚われの御心になるからこそ、霊魂賜りなく絡み付くからこそ、御心、五十鈴のように清らかにしておくことが大切ぞ。よろしく頼むな!

本来、ここに伝えにきたタケハズチが使者として選ばれた理由は、たぶん、タケミカズチとフツヌシは「上方の力をもってこの関東を納めよ」と命を受けているから強力にやってたんだけど、この地を納めるためには力ではなく、大事な神の意志の思いを理解する者を見つけて、その思いをわかりあうまで時間をかけて、「穏やかな物事の納めをせよ」という土地の大事な思いがあったからこそ、その思いを積み上げるまでに凄く時間がかかったと言っていますね。

ただ、上方の上からの命令を受けた方々(タケミカズチとフツヌシ)はやっぱりその思いを一部分で伝えるし、庶民たちは庶民たちで取った取られた話しが残っていますが、本来はここのトップである「タケハズチ」は(※タケハズチはやっぱりこの地域の中で相当知恵のある方だったみたいなので)、時代の行く末を見て「このままでは無理だ」ということが分っていたみたいなので、友好な和平の段階の手の組み方をちゃんと話し、亡くなった後の御霊の納め方まで考えたみたいです。

どうすれば、一番争いなく納まるか、そこまで話しをして納めた場所がこの場所の本来の意味だからこそ、「この地には争いの念は残っておりませんよ」と言っています

だから、「争い心を動かしては行けませんよ」とも言っています。こういう知恵のある方の功労は、いつも表に出ないものです。

香取神宮・奥宮メッセージ

行く末保ちつつ、この世、この身、守りしこと、おこがましきかな。

この世守りしこと、この見守ることできぬほど大きな思いとエネルギーがあるからこそ、この身を消して、神と一体になることこそが、この地の神を守る思い。

その思い繋がりまして守りしこと、他の神々の思いなればこそ、ここにはただ一つ、身の蓋もなき、共にあらせらる神の大元との繋がりしこと、その御心一つだけで良きといたしましょう。

私はここにあるとても大切な神気を守っていますが、自分を守ろうなどという愚かな気持ちは一切、ございません。

「神の魂」を守るというお役目は、この世の中全てを変えてしまうほど大きな力があるからこそ、この身を消して、神と一体になることでしかこの神気を守る事はできませんでした。

その思いを理解して下さるならば、どうか、他に祀られている神々の違いを問うのではなく、全ての神々も、全ての人間も、たったひとつの「大元の神」に繋がっている事を理解する事で、心ひとつに生きてはいかがでしょうか?

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土師氏は野見宿祢を祖先とする氏族で、野見宿祢については、『日本書紀』垂仁7年7月7日条にその伝承が見える。それによると、大和の当麻邑に力自慢の当麻蹶速という人物がおり、天皇出雲国から野見宿祢を召し、当麻蹶速と相撲を取らせた。野見宿祢当麻蹶速を殺して、その結果、天皇当麻蹶速の土地を野見宿祢に与えた。そして、野見宿祢はそのままそこに留まって、天皇に仕えた、とある。

元々は常陸の多氏(おおうじ)が信仰していた鹿島の土着神(国津神)で、海上交通の神として信仰されていたとする説がある。大和岩雄の考察によれば、もともと「大忌」つまり神事のうえで上位であるはずの多氏の祭神であったのだが、もとは「小忌」であった中臣氏にとってかわられ、氏神ごと乗っ取られてしまったのだという(『神社と古代王権祭祀』)。