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欧州に現存する他の君主制を、俗に英語で「自転車君主制(Bicycle monarchy)」と表現する程度には、王室が今なお荘厳さを保っている国家である。

「自転車君主制」という言葉に耳馴染みがある方は、おそらくほとんどいないだろう。Google画像検索でこの言葉を打ち込んでみたならば、オランダや、デンマークなどの北欧の王室の方々が自転車で気軽に外出している姿が見られるはずだ。「自転車君主制」とは、こうした平民的なライフスタイルの君主制を表す言葉である。

これらの国々では、傍系王族どころか君主ですら、護衛を一切連れず、あるいは小数しか伴わずに街中を闊歩することがある。

この手の話に欠かせないのが、国民全員が護衛をしてくれていると言って1人で出歩いたノルウェー国王オーラヴ5世(在位:1957~1991年)だ。この有名な王の逸話については、君塚直隆氏の“「400万の護衛がついている!」ヒトラーに決して屈しなかった国王”をご覧いただくとして、ここで強調しておきたいのは、ヨーロッパで彼のような君主は昔から珍しくなかったということである。

明治38(1905)年、本邦で『世界之帝王』(博文館)という書籍が出版された。これを読むと、当時すでに多くのヨーロッパの君主たちがかなり気軽に出歩いていたことがよくわかる。

現代でも傍系王族には護衛が付かないのが当たり前の国、デンマーク。この国では、クリスチャン9世(在位:1863~1906年)の時代にはすでに、王も王子たちも気さくに出歩いていた。『世界之帝王』はこう伝える――「王は一人して彼方此方を逍遥するを好み、また到る處に國民と物語るを常とせり」。その治世を象徴する、こんな逸話がある。

散歩中に元侍従と出くわしたクリスチャン9世は、一緒に食事に行くことにした。支払いの時になって財布が空っぽだと気付き、困り果てていたところに通りかかったのは王太子。王は嬉々として駆け寄り、囁いた。「金を少し貸してくれ、持ち合わせがないのだ……」。

非常に愉快なこの逸話だが、彼の息子の一人であるギリシャ王ゲオルギオス1世(在位:1863~1913年)――「折々單獨(たんどく)にて宮城を出で市中を巡りて、賤しき商店などにすら立ち寄る」と伝わる――には、深夜に一人で散策に出かけようとしていたところを、不審者と勘違いされて王宮の番兵に銃撃されたという笑うに笑えないエピソードが残されている。

『世界之帝王』にはこのような逸話が豊富に収録されているので、ぜひともご一読いただきたい(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900102)。個々のエピソードが史実かどうかは疑問の余地もあろうが、このように欧州の君主家が当時からかなり自由に外出していたこと自体は確かである。

治世の短さも手伝って、一般的に影が薄いと思われている大正天皇。だが、歴史ファンには、特に皇太子時代の気さくな振る舞いで知られている。

たとえば、宮中に長く仕えた坊城俊良氏の『宮中五十年』(講談社学術文庫)によると、沼津御用邸に滞在していた時には内舎人(※うどねり、身の回りの世話を担当する侍従)を1人だけ連れて、自転車で「さっと裏門から飛び出されて、どこかへ遊びに行かれる」ことがしばしばあったそうだ。

また、水谷次郎『大正天皇御物語』(日本書院出版部)には、葉山御用邸に滞在していた時の地元住民との交流が生き生きと描かれている(旧漢字はあらためた)。

或る時新倉さんなどが浜辺で地曳網を引いてゐますと、東宮さまには浜辺へ駆けて来られて
「おい、何か捕れたか、やあ、沢山取れたなあ、みんな持つて来い。」
と大そう御機嫌でお話をなさいました

明治35(1902)年の新潟行啓時には、白山公園を1人で歩いているところを市民に目撃されている。原武史氏はこれについて「現代の象徴天皇制でも考えられないような話」(『大正天皇』、朝日新聞出版)と述べている。

F.R.ディキンソン氏は『大正天皇:一躍五大洲を雄飛す』(ミネルヴァ書房)の中でこう書いている――「国民との接近を図るためにイギリスの皇室に自由な行動が許されたと同じように、計画的に嘉仁にも自由を与えようとしたと思われる」(原文ママ)。

つまり、留学経験などから英国事情に通じていた東宮輔導・有栖川宮威仁親王が、英国流をある程度目指そうとしたのだと考えられる。さらに付け加えれば、先に触れたデンマーク王クリスチャン9世などはまさに同時期の君主なのである。

「即今、外國ニ於テモ帝王従者一二ヲ率シテ國中ヲ歩キ萬民ヲ撫育スルハ、実ニ君道ヲ行フモノト謂ヘシ」――意訳すれば「今の世の中、わずかばかりの供を連れて国内を回り、万民と触れ合う外国の帝王こそが理想的な君主だ」とでもなろうか。

上に示したのは、大久保利通が著した『大阪遷都建白書』草案の一部だ。大久保は明治維新の頃、民の父母として天皇も欧州君主のように行動すべきだと大胆な提言をしたのである(詳細はぜひ大山格氏の”大久保利通は何を起こせなかったか?潰えた首都大坂と「開かれた皇室」”をお読みいただきたい)。

結局この提言が容れられることはなかったが、明治時代のうちに部分的にではあるものの実現していたといえるのかもしれない。

終戦後、厳戒だった警備が緩和され、昭和天皇が国民と親しく接触されるようになったのを受けて、貞明皇后(※大正天皇の后。当時は皇太后)はこう仰ったそうだ。

「これで本当によくなった、しかし昔はまだよかった……」(『宮中五十年』)

上皇陛下はかつて、「皇室がもっとオープンで国民に近い存在であるべきだ」という意見に対し、こうお答えになられたそうだ。

「現実に皇室が取るべき道としては、国民の意志に敬意を払う一方で、国民との距離が離れていないかを考えるべきだ」(『天皇:平成の幕開け』、時事通信社)。

「平成流」の時代に入ると、私服警官を増やしたり交通規制を緩和したりと「ソフト警備」化が進められてきたが、それでも警備が厳重なこと自体は今なお変わらない。平成29(2017)年11月の鹿児島県行幸啓に同行した井上亮氏は、こんな感想を抱いている。

屋久島から沖永良部島のホテルに着くまで、異様に感じたのは警察の尋常でない警備態勢だ。地方行幸啓ではつきものの『過剰警備』だが、今回は『こんな小さな島で、これほどの人数が必要なのか』と思えるほど警官の姿が目立った」(『象徴天皇の旅:平成に築かれた国民との絆』、平凡社新書)。

上皇陛下は在位中、ごくまれに皇居の外をお忍びで散策されることがあったし、今上陛下も皇太子時代に「皇居ラン」をされたことがある。しかし、皇居からは目と鼻の先だというのに、どちらもご周囲に10人ほども警衛などの姿があった。

欧州の事情を見た後では、日本の皇室は公私両面で「過剰警備」との指摘があっても仕方ないように思われる。天皇が一人歩きをされるのは無理でも、たとえば行幸啓時の警備をもう少し緩めるくらいのことは検討してもよいのではないだろうか。

そもそも警備を前提とする元皇族の暮らしは、極左過激派などが「絶滅危惧種」となった現代にも当然視されるべきものなのだろうか――。

もっとも、渦中の眞子内親王殿下については、これだけ世間の注目を集めている以上、降嫁後に警護なしというのは現実的ではない。

昭和天皇の次弟・高松宮宣仁親王が喜久子妃にしばしば仰ったというおことばを紹介して、この記事の締めくくりとしたい。

「皇族というのは国民に護ってもらっているんだから、過剰な警備なんかいらない。堀をめぐらして城壁を構えて、大々的に警護しなければならないような皇室なら、何百年も前に滅んでいるよ」(『文藝春秋』平成十年八月号)

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