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4日、81歳で亡くなった川嶋辰彦さんの葬儀は、東京都内にある自宅でごく近い親族のみで行われ、午後4時前には、秋篠宮ご夫妻と次女の佳子さま、長男の悠仁さまが訪れ、参列されました。

これに先立って長女の眞子さんも、先月結婚した小室圭さんとともにタクシーで到着しました。

秋篠宮ご一家の側近によりますと、ご一家は川嶋さんが亡くなったことを大変、悲しんでいるということで、6日は1時間余り滞在して、お別れをされました。

宮内庁によりますと、秋篠宮さまは4日から7日間、紀子さまは90日間、佳子さまと悠仁さまは30日間、喪に服されることになっています。

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#天皇家

週刊ポスト』の「MEGA地震予測」でおなじみの東京大学名誉教授・村井俊治氏(82)である。

 田所博士は東大教授として、GPSデータに基づく地震予測精度の向上に貢献したと説明されているが、現実にGPSを使った地震予測を日本で行なう研究者は数少なく、その一人が村井氏で、過去に東大教授を務めた点も共通している。

 何よりも相通じるのは、両者の「生き様」だ。

 田所博士は日本地球物理学界の異端児として扱われながら、独自の研究にのめり込む。一方で測量工学の権威である村井氏は地震予測に参入し、門外漢とされながら研究を続ける。村井氏が振り返る。

「測量工学者の私が地震予測を始めた際は、周囲から変人扱いされ、何度特許を出願しても難癖に近いかたちで拒絶されました。いくら画期的な地震予測法を開発しても、地震学会からは見向きもされませんでした」

 1939年9月に戦前の東京で生まれ、敗戦の翌年に小学校に入学。戦後教育の一期生として勉学に励み、1959年に東京大学理科一類に進学し、大学時代はボート部で日本代表としてローマオリンピック(1960年)にも出場した。

 東大を卒業後は、指導教官の勧めで建設コンサルタント会社に入社した。順風満帆な人生を送ってきた村井氏だったが、2年目に従業員への利益還元を求めてボーナス闘争を主導したことで会社に睨まれ、未開の地であるアフリカ・ガーナにダム調査の命令が出る。完全なる左遷だった。

 慣れない現地では不測の事態が生じた。村井氏と事務員以外の20人ほどの日本人がマラリアを発症したのだ。そこで村井氏は独自調査を行ない、原因が栄養失調にあることを突き止めた。

「予算は潤沢なのに食事が粗悪だったので調査したら、現地の事務所長がコックやボーイに任せきりで食事代をごまかされていた。栄養状態を改善するため所長から予算を取り上げ、現地の市場で調達した新鮮な食料を連日スタッフに振る舞いました。結果、マラリア患者は激減して職員は大喜びでした」(村井氏・以下同)

 しかし、この行動は所長と上層部の不評を買うことになり、一時帰国した際に幹部に呼ばれて問責された。村井氏はこれに納得がいかず、自ら退職した。1966年のことだった。

 路頭に迷った村井氏だが、学生時代の恩師に救われ、東大の生産技術研究所の研究生となった。

「失業中は職安通いでお金がなく、昼食を食べることもできないほど貧乏でした。幸運なことに研究生になれたので、必死の思いで勉強しました」

 猛勉強の成果が出て、3か月後に助手となり、1970年に31歳にして博士論文を書き上げ、その後、助教授、教授と昇進した。当時、心血を注いだのが写真測量学の研究だ。

「写真測量学は、土地や建造物などの位置や距離を測り、地図や建設工事などの図面の作成に役立てる学問です。私の研究者時代に測量技術は突出した技術革新を遂げて、地球の表面を正確に測定できるようになりました」

 1992年にアジア人として初めて国際写真測量・リモートセンシング(遠隔探査)学会の会長に就任した。53歳のことだった。測量工学の世界的権威となり、2000年に東大を定年退官した。研究者時代に得た知見を村井氏はこう語る。

「研究テーマを探すのに投資することや、常識や固定観念を打破することが重要と学びました。考え方がブレず、終始一貫することも大切です」

 たとえ、世間からどう言われようと地震予測を続ける現在の姿勢は、こうした波乱の人生の中で得たものだった。常識や固定観念を打ち破って身につけた測量工学が地震予測に役立つとは、退官時の村井氏は思いも寄らなかった。

 退官から2年後、再就職をせずフリーな立場だった村井氏は運命的な誘いを受けた。

GPSのデータを使って、地震予測をしてみませんか?」

 そう村井氏に持ちかけたのは、航空測量学の専門家・荒木春視博士だ。荒木氏の提案は、GPSの位置情報を使って地球のわずかな動きを測定し、地盤や地殻の変動を調べて地震の予測をしてみないかというものだった。

「最初に荒木さんの提案を聞いた時は、『GPS地震を予測するなんて、本当にできるのかな』と半信半疑でした」

 だが翌年に発生した十勝沖地震を調査した村井氏は、言葉を失った。

地震発生から遡って地表の動きを調べると、前兆現象とみられる明らかに異常な地表の動きがあったことが分かりました。その時、『この方法は正しい』と気づきました」

 村井氏の地震予測のキモとなるのは、国土地理院が全国約1300か所に設置する電子基準点のGPSデータである。電子基準点は、高さ5mほどの塔のようなもので、頂部には受信機が設置されている。人工衛星でその位置の変化を常時測定でき、地球の表面の微妙な動きも測定できる。

「基準点が網の目のように張り巡らされている国は、世界中で日本だけですが、そのデータを分析し、地震予測に役立てようとする研究者は当時、皆無でした。私たちの目の前には“宝の山”が転がっていたのです」

 村井氏は測量工学の知識を総動員して地震予測をブラッシュアップし、電子基準点のX軸、Y軸、Z軸という三次元の座標軸の動きなどから、地殻の微小な変動を解析する方法を編み出した。

「この方法で十勝沖地震以降の大きな地震をいくつか調べると、すべてで前兆となる変動が確認できました。“気づき”は“確信”へと変わり、これまでの地震学では成しえなかった新しい地震予測を測量工学が可能にすることが分かり、大いに興奮しました」

 村井氏と荒木氏は共同研究の成果を「地震・火山噴火予知」という特許にまとめた。だが、思わぬ反応が待っていた。

「1度目の特許出願は特許庁から拒絶されて、さらに2度目、3度目も拒絶されました。その理由も『こんな地震予測なら誰でも考えられる』など難癖に近いもので、絶望すら感じました。おそらく地震の専門家が審査員で、部外者である我々の提案が気に入らなかったのでしょう」

 2006年、一部補正してようやく特許が認定されたが、周りの目は変わらず、成果を世の中に還元することができなかった。

 そして2011年3月11日、村井氏の心を深く抉る事態が発生した。東日本大震災である。村井氏が振り返る。

「実は東日本大震災の1か月ほど前から私は東北地方の地表が異様な変動を見せていることに気づき、巨大地震の前兆ではないかと考えていました。

 しかし当時は、地震予知連絡会という国の機関が『勝手に地震予知という言葉を使って社会を混乱させてはいけない』と注意していたこともあり、公表した場合のリスクを考えて口を閉じました。その結果として多くの犠牲者を生んでしまい、自分は何のために研究していたのかと自問しました。そしてこれから先は、異常に気づいたらたとえ恥をかいても発言しようと心に決めたんです」

 東日本大震災の反省から決意を新たにした村井氏は、気象庁に電話で「地震予測をやりたい」と申し出た。すると担当者はこう答えた。

「いいですよ。ただし役所としては、民間人による予測は“占い”として扱います」

 この時の心境を村井氏はこう振り返る。

「それで結構、と思いました。だったら地震予測の占いをしようじゃないかと開き直りました」

 その後の村井氏の躍進は目を見張るものだ。2013年に地震科学探査機構(JESEA)を立ち上げ、「週刊MEGA地震予測」というメールマガジンの配信を始めた。『週刊ポスト』を皮切りに多くのメディアに登場し、2014年3月に出演したテレビ番組で5日後の伊予灘地震を予測して大きな話題となった。

 その後も「村井理論」は進化を続けた。電子基準点の1週間ごとの上下動の「異常変動」、長期的な上下動の「隆起・沈降」、東西南北の「水平方向の動き」という3つの指標を総合的に分析する方法に加え、昨年以降はAI(人工知能)による危険度判定を導入している。

 今年7月からは衛星画像を解析し、1か月以内に、どのエリアで、どのくらいの規模の地震が起きるのかを予測する「ピンポイント予測」も実用化した。村井氏が最後に語る。

地震予測を始めてから10年ほどは周囲から“変な老人”として扱われましたが、我々は数多くの地震を予測してきました。これからも『地震被害から逃れたい』という国民の要請に応じられるよう、地道に地震予測を続けていきたいと思います」

#気象・災害

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