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 これまでの歴史エンタメといえば、戦国と幕末が圧倒的なシェアを誇っています。この二つがヒットするのは、とてもわかりやすい。幕末は、今の時代に直結しますし、坂本龍馬高杉晋作といった「若者」がキーパーソンなので、感情移入しやすいものです。また戦国時代は、ご当地ものです。各地に「うちの地元の大名や武将」は必ずいるもので、伊達政宗(宮城)、武田信玄(山梨)と、各地に物語が生まれやすい。いってしまえば、甲子園で地元の高校球児を応援するような感覚でしょうか。それだけに武将も、幕末維新の志士もあらかた題材になってしまいました。「こんな人まで!」と驚くようなマイナーな人まで、小説、マンガ、ゲームの登場人物になっています。

 新しい鉱脈はないか、と人々が探している時期に、『応仁の乱』(2016年、呉座勇一著)が、ベストセラーになり、中世史に新しい目が向けられることになりました。しかし、室町時代は、敵味方が入り乱れていて、一本の物語にしづらい問題があります。その難しさを歴史の玄人は楽しめますが、一般向けのエンタメにするには、相当な力業が必要でしょう。

 そこで、注目されたのが、中世史の中でも物語としての「実績」のある鎌倉時代だったのではないでしょうか。

 源平合戦鎌倉時代は、すでに江戸時代にもっとも人気があるテーマでした。当時の誰もが知るキャラクターは、父の敵を討った仇討ち事件の主人公、曽我十郎・曽我五郎兄弟です。この題材は幾度となく歌舞伎で上演されていますが、源頼朝北条時政も登場する実際の事件をもとにした作品でした。曽我兄弟は、歌川豊国らの絵師によって錦絵にされていたほどの人気ものでした。

 北条義時とはどのようなリーダーだったのでしょうか。義時は決断をするときに、人の意見に耳を傾け、その意見に従った形を作るのが上手いリーダーでした。1221年承久の乱が起こると、義時たち武士は鎌倉の守りを固めて、京都からの敵を迎え撃つことにしました。ところが、決定直後に、実際には戦争に参加しない人たちに意見を求めたことが歴史書吾妻鏡』に記されています。すると京都出身の文官トップの大江広元や義時の姉の北条政子は、「今すぐにでも京都に攻め上った方がいい」と主張したのです。最終的に義時は、これを受け入れ、息子の泰時に京都を攻めさせて勝利しました。

 しかしなぜ、簡単に決定を翻したのか。本音では最初から、広元や政子と同じ意見だった可能性も否定できません。「人の意見を聞く」というのは、一筋縄ではいかない側面があります。様々な主張の中で、自分が選びたかった選択肢だけをピックアップしたり、そもそも自分と同じ考えの人だけが話をできる状況を作ったりすることも可能です。つまり「意見を聞いた」というアリバイ作りをしているとみることもできるのです。「失脚=死」の厳しい時代を勝ち残った北条氏から学べるものは、まだまだあると考えています。

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