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#天皇家

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ユダヤ人の避難所 ニューヨークのはじまり|茂木誠

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日本に到着した初めてのオランダ船である。船長はクワッケルナック。漂着地は臼杵湾の黒島とされるが、佐伯湾の大入島とする説もある。

出航時の乗組員は110人ほどいたが、日本に到達した時の生存者はわずかに24名だった。生存者の中でも立つことが出来たのは6人のみで、重傷者が多く翌日に3人が死亡したという。翌年中までに更に7人が死亡し、最終的な生存者は14人となった。生存者の中には、江戸幕府の外交顧問になったヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムス(三浦按針)、船長のヤコブ・クワッケルナック、堺で貿易商となったメルヒオール・ファン・サントフォールトも含まれていた。アダムスは日本に初めて来たイギリス人(厳密にはイングランド人)であった。

漂着後、大坂に回航され、後浦賀に回航された(回航時に暴風雨に遭って沈没したとも言われる)。宣教師やスペイン人の記録によると徳川家康関ヶ原の戦い時、リーフデ号の備砲や砲員を活用、さらには甲冑を回収し当世具足に仕立てたという。この漂着事件のことをリーフデ号事件ともいう。

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ヤン・ヨーステン」は名で、姓は「ファン・ローデンステイン」である。

徳川家康に信任され、江戸城の内堀沿いに邸を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の千代田区にあたり、現在の中央区八重洲の地名は1954年に成立したものである。「ヤン=ヨーステン」が訛った日本名「耶楊子」(やようす)と呼ばれるようになり、これがのちに「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になったとされる。

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世界初の株式会社といわれる。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられた勅許会社であり、帝国主義の先駆け。

スペイン、ポルトガルユダヤは改宗が強制され、異端審問などでひどい扱いを受けていた。そこから追放されたユダヤ人はアムステルダムなど各地に散在。ユダヤ人は商人などが多いので、東インド会社ユダヤ人が関係している。日本からのポルトガルの排斥はその意味からも非常に重要なポイントである。

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ハドソン湾ハドソン海峡ハドソン川は彼の名にちなむ。

ハドソンは1607年にモスクワ会社(モスクワ大公国との貿易を独占するイングランド最初の勅許会社)に雇われた。会社設立の目的の一つは、シベリア沖の北極海を通ってヨーロッパと中国を最短で結ぶ北東航路の探検であった。当時の人々は、沈まない夏の太陽が3ヶ月間北極圏を照らし続けることで、北極海の氷が溶け、イングランドから北極点を通って太平洋のモルッカ諸島へ直行できる海路が開くだろうと信じていた。イングランドはアジアを目指す航路でオランダやスペインと争っていたが、北極海経由の航路探検でも先を競っていた。

同年彼は北極海に向かって船出し、北極点の577海里(1,069km)南にまで達したが夏でも融けない厚い海氷に閉ざされて先に進めず、9月にイングランドに戻ってきた。

1609年、同じくアジアへの近道を求めるオランダ東インド会社に雇われ、ハーヴ・ミーン号(Halve Maen 、英語のハーフ・ムーン号の名でも知られる)で大西洋横断航海に出た。彼の任務は、今度はアメリカ大陸の北を周ってアジアに向かう北西航路の発見だったが、自分も含め以前の航海者がすべて氷で行く手を阻まれてきたため無理だと考えた。同時期にジェームズタウンのヴァージニア植民地が建設されたことを聞いた彼は、北米中央部から太平洋へ出る航路を探すことにした。

ハーヴ・ミーン号はチェサピーク湾とデラウェア湾周辺を航海したが、これらの湾は太平洋にはつながっていないことが分かった。彼はその北にあるニューヨーク湾へ入りハドソン川を遡り、オールバニーにまで達したが、これより先は川幅が狭いため戻らざるを得なかった。結局北アメリカは当初考えられていた群島ではなく大陸であり、太平洋への水路はなかったことが後に判明している。

ハドソン川の探検で、彼はモヒカン族やワッピンガー族など多くのアメリカ先住民と交易を行い、貝殻、ビーズ、そしてビーバーやカワウソの良質の毛皮を得た。オランダはこの航海をきっかけに毛皮交易を始め、この地域への権利を主張するようになる。こうしてニューネーデルラントが誕生し、1625年、ハドソン川河口の島マンハッタンに首都ニューアムステルダム(後のニューヨーク)が建設される。

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ニューヨークはオランダ人が25ドルでインディアンから買ったという話は単なる伝説のようだが

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1652年、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)の植民地ニューアムステルダム(現在のニューヨーク)を管轄していたオランダ西インド会社が、インディアンや、ニューイングランドに入植したイギリス人からの攻撃に備えて、木材などを利用して築いた防護壁(wall)に由来する。もっとも実際の戦闘で利用されることはなく、1699年に解体された。

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1623年にオランダ領東インド(現インドネシアモルッカ諸島アンボイナ島にあるイギリス東インド会社商館をオランダが襲い、商館員を全員殺害した事件である。

この当時(江戸時代)の日本は、戦国時代が終り、関ヶ原の戦いの後の大名改易は、大量の浪人を発生させた。生活に困窮した多くは、「鎖国」確立まで、多くが、欧州や東南アジアの傭兵となり、東南アジア方面に渡航する者が増え、アユタヤやプノンペンには日本人町が形成されるほどであった。アンボイナ島にも、傭兵として勤務する者もいた。1623年2月10日の夜、イギリス東インド会社の日本人平戸出身の傭兵・七蔵がオランダの衛兵らに対し、城壁の構造や兵の数についてしきりに尋ねていた。これを不審に思ったオランダ当局が、七蔵を拘束して拷問にかけたところ、イングランドが砦の占領を計画していると自白。直ちにイギリス東インド会社商館長ガブリエル・タワーソン(Gabriel Towerson) ら30余名を捕らえた当局は、彼らに火責め、水責め、四肢の切断などの凄惨な拷問を加え、これを認めさせた。3月9日、当局はタワーソンをはじめイギリス人9名、日本人10名、ポルトガル人1名を斬首して、同島におけるイングランド勢力を排除した。

実際にイングランドが襲撃を実行しようとしていたという自白の信憑性は低いものと考えられており、事件当時オランダ東インド会社総督であったヤン・ピーテルスゾーン・クーンは、自国の貿易独占を主張し、本国政府の対応を弱腰と非難していたため、事件は彼の仕組んだ陰謀であるとの説もある。

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未婚の女王エリザベス1世にちなんでバージニア命名した。

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17世紀始めには英蘭両国はカトリックのスペイン・ポルトガル勢力に対して協力関係にあったが、オランダ東インド会社の実力がイギリス東インド会社を上回り、1623年のアンボイナ事件を契機に、イングランドは東南アジアや東アジアから撤退せざるを得なくなった。香料貿易を独占したオランダにはアジアの富が流入し、イングランドでは反オランダ感情が高まった。

第二次英蘭戦争

イングランド軍が北アメリカにおけるオランダ植民地ニューアムステルダムを占領したことが発端となった。前回同様イングランド艦隊はオランダ商船の拿捕やオランダ諸港の封鎖を行おうとしたが、財政難で失敗した。

イングランド海軍はチャールズ2世の弟で海軍卿ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世と、ヨーク公の従兄のカンバーランド公ルパート、共和政でイングランド海軍の提督だったサンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギューが指揮を執っていた。

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ヨーロッパ人の入植は、オランダ人が1614年にマンハッタンの南端に毛皮貿易のために建てた植民地が始まりであり、これが後に「ニューアムステルダム」と呼ばれるようになった。オランダ植民地の総裁ピーター・ミヌイットが、1626年、レナペ族(デラウェア族)からマンハッタン島を60ギルダー(2006年現在の換算で1,000ドル程度)分の物品と交換した。現在では否定されているが、マンハッタンの代価は24ドル相当のガラスのビーズであったという伝説もある。インディアンには「土地を売る」という文化がそもそもなかったため、この取引を彼らが理解していたかどうかは疑わしい。以後、ボタンをかけ違えたまま、レナペ族や周辺部族と入植者は何度も領土をめぐって戦いが繰り返されているのである。

1664年、イギリス人が町を征服し、イングランドジェームズ2世(ヨーク・アルバニー公)の名を取って「ニューヨーク」と名付けた。

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マナハッタというのは、今から400年前、マンハッタンの先住民だった
ネイティブアメリカンデラウェア族の言葉で、
「丘が多い島」という意味。

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北米植民地戦争とアメリカ独立/ロスチャイルド家のはじまり|茂木誠

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フランス国王ルイ14世に因んでルイジアナと名づけられた。元々、その領域はミシシッピ川流域のほとんどを含んでおり、南北は五大湖からメキシコ湾まで、東西はアパラチア山脈からロッキー山脈まで広大に広がっていた。

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17世紀末~19世紀初頭、イギリスとフランスは、ヨーロッパ本土において戦争を繰り返しただけでなく、アメリカ植民地・インド植民地においても激しく抗争した。その長期にわたって断続的に繰り返された両国の戦争を、14~15世紀の百年戦争になぞらえて、第2次百年戦争とも言う。

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フランス植民地であったケベック州では、Intercolonial Wars (植民地同士の戦争)とも呼ぶ。またウィリアム3世によって開始された英仏の抗争はナポレオン戦争終結まで続き、第2次百年戦争と呼ばれることもある。

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大同盟戦争の北アメリカの植民地における戦争であるが、植民地には両国とも遠征軍を派遣できず、それぞれが独自の兵力で対戦した。北アメリカではイギリス国王ウィリアム3世の名を取ってウィリアム王戦争とよばれている。

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ヨーロッパでは、北アメリカで行われたこの戦争に関して、特に決まった呼び名はない。この名はイギリス人入植者の、2つの主な敵、フランス王国の軍、フランス軍と同盟を結んだ様々なインディアンの部族のことである。しかしグレートブリテン王国(イギリス)もまたインディアンと同盟を結んでいた。しかし、イギリス側からの視点でフランスがインディアンと同盟していたと見るため、「フランス及びインディアンとの戦争(French and Indian War)」と呼ばれる。

植民地同士の戦争は何通りかの呼び名がある。イギリス領のアメリカ植民地では、17世紀後半から、ヨーロッパの戦争に呼応して起こった植民地戦争が、その時々の君主の名前にちなんで、たとえばウィリアム王戦争、アン女王戦争、ジョージ王戦争と呼ばれていた。すでに1740年代の戦争にジョージ王の名が冠せられていたため、やはりジョージ王治世下に起こった1750年代の戦争は「フレンチ・アンド・インディアン戦争」と呼ばれた。

この戦争には経費が掛かった。特にピットの在任時には出費が多く1億4千万ポンドにも上り、その半分はアメリカ植民地の防御に費やされた。七年戦争により、イギリスの国債はほぼ2倍となった。国王は債務を支払うための財源として、植民地に新しい税をかけることにした。イギリス人は、この負担は植民地も引き受けるべきだと考えた。このため、13植民地に対し、1764年に砂糖法が施行された。これは砂糖のみならず、コーヒーやワインも対象となり、その後対個人の税である印紙法も施行された。この新税の導入に対して、大規模かつ徹底した抗議行動が起こり、このため軍が出動し、総督府は何とか無事に仕事を遂行できた。これらの課税条例は最終的にアメリカ独立戦争の発端となった 一方で、この戦争でフランスとの植民地獲得競争での優位を確実にしたイギリスは、植民地貿易の利潤をよりいっそう蓄積することが可能となった。このことは1760年代以降のイギリス産業革命を促した、数ある要因のなかのひとつになっている。

多くのインディアンにとって、北アメリカでのフランスの軍事力が失われたことは、強力な同盟の消失を意味し、イギリス支配でそれが埋め合わされたことは、彼らにとって最大の追い立てが始まることであった。

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もともとはワンパノアグ族やポウハタン族、ナラガンセット族、イロコイ族など、多様なインディアン部族が領土としていた地域であり、イギリスのピューリタン入植と同時に民族浄化の対象にされた。

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この戦争によって、植民地の住民はイギリスの支配を拒否し、アメリカ合衆国(United States)を政治的独立に導くことに成功した。1775年、革命派は13植民地政府の全てを掌握すると共に、主に政治と立法を担当する第二次大陸会議と軍事を担当する大陸軍を発足させた。

翌年、アメリカ独立宣言を発して、正式にアメリカ合衆国という国家を形作った。戦争の全期間を通して、イギリスは優勢な海軍力によってアメリ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都市を占領したが、陸軍の兵数は比較的少なく、支配地域は限定的であった。

アメリ大陸軍サラトガの戦いで勝利して間もない1778年には、フランスアメリカ側に付いて参戦した。スペインやネーデルラント連邦共和国(オランダ)も、その後の2年以内にアメリカ側に付いた。1781年にフランス海軍がチェサピーク湾の海戦で勝利したことをきっかけに、アメリ大陸軍フランス王国派遣軍は1781年のヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘は終了した。

1783年のパリ条約で戦争が終結し、イギリスはアメリカ合衆国の独立を正式に認めた。

アメリカ植民地が独立への道を歩み始めたそもそものきっかけはイギリス本国による課税の強化にあり、それはフレンチ・インディアン戦争(1754年 - 1763年)による財政危機の解消を目的としたものであった。

勝利を喜んだのはアメリカだけではなく、フランス王国もそうだった。

熱烈な青年貴族ラファイエットが参戦したブルボン朝においては、勝利の後しばらく貴婦人の間に頭に船の模型を乗せた一風変わった髪形が流行した。だが、アメリカ独立戦争における対外援助は、既に大きく傾きかけていたフランスの財政を破綻させ、フランス革命を起こす要因となった。

またアメリカ独立宣言はフランス革命に影響を与え、ラファイエットら起草のフランス人権宣言となって結実した。

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ロスチャイルド」は英語読み。ドイツ語読みは「ロートシルト」。フランス語読みは「ロチルド」。

フランクフルト出身のユダヤ人富豪で、神聖ローマ帝国フランクフルト自由都市ヘッセン=カッセル方伯領の宮廷ユダヤ人であったマイアー・アムシェル・ロートシルト(1744-1812)が1760年代に銀行業を確立したことで隆盛を極めた。


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アメリカへのユダヤ移民の波が3つある」

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だがナポレオン戦争の過程で、民主主義、近代法、特権階級の廃止などのフランス革命思想が、ヨーロッパ各地やラテンアメリカなど一部の植民地へ伝播した。ナポレオン法典を基礎とした諸法典は、旧体制の復活の後も各国に残された。革命思想は1848年革命の思想的基盤となってゆく。同時に、ナポレオン戦争民族主義が広まる契機となった。民族主義はヨーロッパの歴史を大きく変え、その後100年間に、ヨーロッパ諸国は封建領主の領土を単位とした領域から国民国家へと変貌した。一方で、ナポレオンが意図したヨーロッパ統一国家の構想は瓦解した。ヨーロッパ統一の機運が再び高まるのは第二次世界大戦後のことになる。

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 多くの歴史家はこの引用文を見て、ソ連邦による一九七九年のアフガニスタン侵攻を思い出すであろう。
 しかし逆説的に、過去二〇〇年間、ヨーロッパにおけるバランス・オブ・パワーは、いく度かロシアの努力と英雄的行動のお陰で保つことが出来たことも、同じく真実である。ロシアなくしては、ナポレオンもヒトラーも、世界帝国をつくり上げることに成功したかもしれない。二つの顔を持つヤヌスの神のように、ロシアはバランス・オブ・パワーに対する脅威でありつつも、このバランス・オブ・パワーを保障するカギの一つでもあり、この均衡を保つ上で不可欠であるとともに必ずしもこの均衡と完全に一体をなすものではなかったのである。ロシアはその歴史を通じて、多くの場合、単に外の世界から押しつけられた制約をしぶしぶ受け入れたに過ぎなかった。それでも、特にナポレオン戦争が終わった後の約四〇年の間は、ロシアはその強大な力にまかせて利益を引き出すことをせず、かえってこの力を中央ヨーロッパ及び西ヨーロッパでの保守的な諸価値を守るために用いたのである。

 元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏は、“アメリカはもうWASPが指導的地位にいる国ではないです。ユダヤ社会がアメリカのエスタブリッシュメントなんです。でこれは、高名なユダヤ人がそう公言してるわけですね。その高名なユダヤ人というのは先般亡くなりましたが、皆さんもご存知のズビグニュー・ブレジンスキーなんですね。国際政治学者なんですが、カーター大統領の安全保障担当の大統領補佐官を務めたブレジンスキーですね。彼はポーランド系のユダヤ人ですが、彼が明確に自分の著書の中で、今やアメリカのエスタブリッシュメントユダヤ社会だと言ってるんですね。…マイノリティの地位、つまり黒人とかヒスパニック系ですが、アジア系も入るかもしれませんが、主として黒人ですね。その地位を向上させることによって、WASPを支配層、つまりエスタブリッシュメントの座から引きずり下ろしたって言ってるんですね。”と説明し、ディープステートの中枢は「ユダヤ社会」だと指摘しています。

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【ディープステートが支配する世界】ディープステートの正体は○○!馬淵睦夫が語る。 馬淵大使 河添恵子 バイデン トランプ ユダヤ

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