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 私の半生を思い返してみると、大学卒業まではこの上なくシンプルで「勉強ができた」の一言に尽きます。そんな私が財務省に入り、残酷な真実を突き付けられました。それは「自分がそれほど優秀な人間ではなかった」ということ。

 そう。仕事ができなかったんです、私。

財務省での配属部署も2階の主税局。2階にオフィスを構える主税局や主計局、文書課、秘書課などが、省内では王道で花形と言われていました。

同期の一人に、コクイチ(国家公務員Ⅰ種試験)の順位が3桁だった男性がいました。私は21番だったので「私のほうが優秀」という自負があり、彼に対して一方的にライバル心を持っていました。でも、気づいたんです。彼が時々、私の仕事のミスをさりげなくフォローしてくれていることに。

 日本の教育は能力主義。それまでは自分は完全に能力で東大をトップで卒業して、みんなを山の頂から見下ろしているつもりでした。でも、職場で通用する能力という面では、頂上にいたわけでは全くなかったんです。

 というわけで、私は24歳で財務省を辞めて、自分の人生を探し始めた。つまり、私の価値が評価される場所を求め始めたのです。

 でも、残念ながら、弁護士事務所でも、仕事で評価されることはありませんでした。

 途中までは、とてもうまくいっていたんです。リサーチは超得意なので、「これならできる!」と自信も持てました。でも、3年目ぐらいになり、手足を動かして調査する能力よりも、頭脳を使って考える能力を求められるようになって様子が一変しました。

 大手事務所はプロジェクトごとに30人規模などのチームで働きます。企業調査を行う際に、最若手は資料の中で難易度の低い基本パートを執筆します。経験を積むに従って難しいパートを担当するようになります。さらに、後輩が書いた文章をチェックし、手を入れてから上に上げるという役割も担うようになります。

 実を言うと、私は「考える」こと全般が嫌いだったんです。それまでの勉強でも深く考えたことなど一度もありませんでした。私にとって勉強とは、深く考えてはいけないこと。情報量と処理能力の勝負でしかなかった。弁護士への勉強ですら「通説と判例を覚えて出す」の繰り返しだと考えていました。通説や判例に疑問を持つ人を見ると、「そんなふうにいちいち疑問を持っていたら、司法試験に落ちてしまうよ」と内心、思っていたぐらいです。

 私の勉強法は、圧倒的な情報量でカバーする「勉強界の体育会系」。だから、弁護士事務所で「自分で考えろ」と初めて言われて衝撃を受けたし、求められるパフォーマンスを出すことなどできませんでした。他人の文章をチェックする能力が全くなく、苦手なスキルを一から磨く精神的な余裕もありませんでした。

 だから、大量のリサーチをスピーディーに行うことで抜きんでるしかないと考えて、より多くの仕事を取るという手段を取りました。難易度の低い仕事も、その後の自分のキャリアアップにつながるような大事な仕事も、見境なく、すべて引き受けました。そうやって多くの仕事を手掛けた結果、処理スピードは落ちていき、評価も下がるという悪循環に。毎晩、夜中まで残業し、自転車で家に帰宅する途中、つらくてつらくて涙が出てきました。警察に不審に思われて、何度も職質(職務質問)されました。

 そのときまでずっと、私は「他人による評価」に自己評価を連動させていました。だから、勉強の成績がよかったときは「私は優れた人間だ」と思っていましたが、職場での評価と共に、自己肯定感も下がった。その一方、「自分が落後者であるはずがない」と信じたい自分もいて、低下する自己肯定感と、大きすぎる自己愛のはざまで揺れに揺れました。

 そして、この頃に、新たな仕事として、クイズ番組などのバラエティ番組に出始めたのです。自分の中では王道から遠のき、どんどん脇道にそれていくイメージでした。

 テレビ出演のきっかけは、東大の学生新聞「東大新聞」で取材されたこと。その記事を見た雑誌が取材をしてくれた縁で、テレビ出演の依頼が来るようになりました。

 このテレビなどのメディアこそが、初めて自分が仕事で評価される場所でした。職場の広報部には、その都度、出演許可をもらいました。それでも、バラエティ番組への出演は、企業法務の保守的な職場とは完全に相反する振る舞いだと思われて、周りから白い目で見られ始め、明らかにプロジェクトのアサインが減り、干されてしまったのです。

 その弁護士事務所は決まった額の給与が支払われるのではなく、報酬制で、稼働時間6分ごとに人件費が支払われる仕組みでした。そしてとうとう、ある月の半ばに秘書から言われました。「先生、お忙しすぎて、稼働時間の入力がゼロのままです。入力しておいてくださいね」と。

 「やばい! 私、今月、稼働がゼロってばれちゃう!」と思って恥ずかしすぎて、「溶けて消えたい」と思った。そしてとっさに(電話相談の)「いのちの電話」のダイヤルを押したんです。でも、通話中でつながりませんでした。

 そのとき、ふと我に返り、「自分の置かれている状況が滑稽(こっけい)だな」って、思いました。「こんなに精神的に追い詰められているのに、さらに、この状況にしがみつく必要なんてある?」って。初めて自分という存在を切り離して上から見ることができて、笑えてきました。そして「辞めよう」と思いました。31歳のときです。

 転職エージェントに相談して、次の仕事を決めてから退職を告げようと思ったのですが、この転職活動が全くうまくいきませんでした。

 この期に及んで、まだ「私は王道」という思い込みが抜けておらず、最初は企業法務の事務所を探しました。でもどうしても、バラエティ番組に出演していることがマイナスに評価されてしまうのです。法律事務所にとってクイズ番組に出ている人を採用するメリットはありませんから。

 さて、身の振り方が決まらずどうしたものか悩みました。そのとき勤めていた法律事務所には、米ハーバード・ロースクールに留学させてもらえる制度があって、私にもその権利がありました。でも、英語は大の苦手。だから、自分が評価されるはずのない場所にわざわざ身を置くことはどうしても避けたかったのですが、どこも私を拾ってくれず、最後は逃亡するかのようにハーバード行きを決断しました。

 でも、そこからがまたつらくて。社会人になって「底」を経験したと思ったら、その先にまだ「底」があった、という感じです。

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「自分の頭で考える」と言う場合、それは「地頭が良い」と言われる人のように「頭を巡らして考える」ことではなく、「胸に手を当てて考える」ことに相当する。
心を澄ましていくと、胸の奥が光る。
それが自分の本体だからだ。

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考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり」は哲学史上で最も有名な命題の一つである。そしてこの命題は、当時の保守的思想であったスコラ哲学の教えであるところの「信仰」による真理の獲得ではなく、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。デカルトが「近代哲学の父」と称される所以である。

ただし、デカルトはそのすべてを信仰も根ざして考えており、著書『方法序説』においても神の存在証明を哲学的にしようと試みてさえいる。

初めて哲学書として出版した著作『方法序説』(1637年)において、冒頭が「良識 (bon sens) はこの世で最も公平に配分されているものである」という文で始まるため、思想の領域における人権宣言にも比される。

デカルトは学院において従順で優秀な生徒であり、教えられる学問(論理学・形而上学・自然学)だけでなく占星術や魔術など秘術の類(たぐい)のものも含めて多くの書物を読んだ。そして、学問の中ではとりわけ数学を好んだ。カリキュラムの一つである哲学的討論においては数学的な手法を用いて相手を困らせた。のちにミニモ会士になり、終生の友人となるマラン・メルセンヌは、学院の先輩に当たる。

好んだ数学に対して、神学・スコラ学の非厳密性、蓋然性は際立ち、それを基礎にした学院の知識に対して、懐疑が生まれることになる。しかし、この学院での教育や教師たちに、デカルトは終生感謝の念を持ち続けた。

デカルトは、学園を離れるとともに書斎で読まれるような「書物」を捨てた。そして、猶予のない決断を迫る「世間という大きな書物」の中に飛び込んでいくことを決意する。

1619年10月からノイブルクで炉部屋にこもり、精神力のすべてをかけて自分自身の生きる道を見つけようとする。そして11月10日の昼間に、「驚くべき学問の基礎」を発見し、夜に3つの神秘的な夢をみる。

枢機卿ド=ベリュルはデカルトの語る新しい哲学の構想を理解し、それを実現させるべく努めることがデカルト「良心の義務」だとまでいって、研究に取り組むことを強く勧めた。

32歳のデカルトは、自己の使命を自覚して本格的に哲学にとりかかる。

幼児の時から無批判に受け入れてきた先入観を排除し、真理に至るために、一旦全てのものをデカルトは疑う。

この方法的懐疑の特徴として、2点挙げられる。1つ目は懐疑を抱くことに本人が意識的・仮定的であること、2つ目は一度でも惑いが生じたものならば、すなわち少しでも疑わしければ、それを完全に排除することである。つまり、方法的懐疑とは、積極的懐疑のことである。

この強力な方法的懐疑は、もう何も確実であるといえるものはないと思えるところまで続けられる。

方法的懐疑を経て、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残りデカルトは、「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる絶対確実なことを発見する。これが「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis(フランス語)である。

これが「個人の尊厳」の根拠。

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 このように『華厳経』は、まず第一に、私たちの常識に挑戦し、自己と自己を取り巻く世界の全体を心の表れとみなし、この見方に立って仏と私たち衆生とも一体であると論じます。

 『華厳経』の中心テーマは、すべての事物・事象の統一性と相互関連性である。

(一)「形而上学は、純粋理性にもとづく哲学的認識が、体系的連関という形をとったものである」(「純理」・八六九)。

#自灯明法灯明

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私は気が弱い。およそプレッシャーというものが苦手で、受験競争がいやで高校を辞めたほどである。みなが一心不乱に勉強している図書館に行くとあらがい難い眠気を覚える一方、騒然とした駅のベンチでにわかに学習意欲を覚えることもある。高校を辞めた後も、半年ほどぶらぶらしていると、次第に学習意欲が湧き、毎日英書を読んだり、古典語を勉強して過ごすようになった。そういうあまのじゃくな人間が何かを選択するとき、競争の少ない、ひそやかな分野に心惹かれるのかもしれない。

高校を辞めたころは、多くの青年がするように、ひとは楽しくもない人生を何のために生きるのかということをよく考えた。自分の人生の難問に取り組むことなくしては、実用的な学問を修めて世の中を渡っていくのは無意味だと思ったので、大学に行きたいと思い直したときから、人文的なことが学べる学部に行こうと心が決まっていた。計画どおりにならない人生だから、天の導きにまかせて学びたいと思うことを学ぶのがよいと思う。なおずっと後になって気づいたことだが、本をちゃんと読めるようになるには本の読み方を学ぶ必要があり、それを体にしみこむほど教えてくれた文学部の学問は、意外にも実用的であった。

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学問は早年より中年に進むに随って、修徳の学(心に道徳性を修める学問)に時務の学(時々の問題について身につけなければならない学問)を加えくるべきものであって、みだりに本末先後を謬(あやま)ってはならない。

時務の前に、人間としてどう生きるかという道徳を修めなければ駄目だ、ということです。今の日本には時務が出来る人は沢山います。だから仕事そのものは出来る。しかし、道徳を修めた人はほとんどいません。だから仕事の方向性を間違える。これでは日本はいつまで経っても善くなりません。

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