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明治7年(1874年)、国は、大阪と神戸を結ぶ鉄道を開通させます。このとき初めて大阪にできた鉄道の駅が、今の「JR大阪駅」です。

上の写真は、京都鉄道博物館に展示されている、明治7年当時の大阪駅の模型です。

国は、東京から京都を幹線と位置づけたうえで、さらに京都と神戸を結ぶ計画でした。

主要都市を結ぶ鉄道だったため、こうした名前がつけられたのです。

大阪駅が建てられた場所はもともと湿地帯でした。

湿地帯を埋め立てて田んぼなどにしたことから、このエリアは「埋め田」と呼ばれるようになりました。

そして、明治時代のはじめには、「梅」の字を使った「梅田」という呼び方が地元では定着していたのです。

このため、京都鉄道博物館学芸員岡本健一郎さんによると、駅ができた当時、地元の人たちは「大阪駅」とは呼ばず、「梅田ステンショ」と呼んでいたといいます。

中心部から離れていた分、梅田=大阪という認識が広がらず、「大阪駅」という呼び方が根づかなかったと考えられています。

その後、阪神や阪急、そして地下鉄が次々に開通。いずれも、駅名は「梅田」と名づけられました。

大阪駅」があるのに、私鉄や地下鉄は「梅田」という駅名を選んだ理由について、各社に問い合わせましたが、資料が残っておらず、詳細な理由はわからないということでした。

大阪の近代の歴史に詳しい専門家に話を聞くと、駅名の違いは役割が違うためではないかと指摘します。

大阪歴史博物館 船越幹央 学芸員
「JRの大阪駅は、東京からやってくる鉄道の大阪に設置された駅なので、都市の名前をとった大阪駅となります。一方、私鉄の駅は、地元の方が日常的によく使われる路線ですので、「梅田」という親しみのある名前をつけることがいいのではないかと考えたのではないでしょうか。梅田駅と比べると、大阪駅は少し遠出をするときに利用されるようなイメージの駅だったと思います」

梅田の地下街は、およそ6万平方メートル。(※国土交通省の基準にのっとって計算)
甲子園球場1.6個分で、日本有数の広さです。

迷路のように道が入り組んでいるほか、坂や段差も多く、SNSでは某有名ゲームを意識して、「地下ろう」などを意味する「ダンジョン」と呼ばれることもあります。

地下街の地図を見てみると、通路はピンク色で示した部分です。

実は、このピンク色の部分、地上の道と同じ場所を通っているのです。

大阪駅がつくられた当時はまだ田んぼが多く、道路建設を妨げるものがありませんでした。

そのため、繁華街や住宅地から最短距離で駅に向かうために、さまざま方角から道路がつくられていったのです。

大阪歴史博物館 船越幹央 学芸員
「建物がないような田んぼの中に道路を通すので、大阪駅に向かって斜めに道を通すことができました。こうしたことから、駅周辺が複雑な形の道路になったと考えられます」

大阪の玄関口である梅田ですが、現在、再開発が進められています。

来年春、大阪駅の北側、「うめきた」エリアの地下にJRの新駅が開業する予定です。

そして、商業施設が入る駅ビルも、2025年の大阪・関西万博の開幕に合わせて全面開業します。

こうした再開発によって、梅田にはさらなるにぎわいが生まれることになりそうですが、“ダンジョン化”が一段と進むかもしれません。

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