https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

11日午前3時すぎ、世田谷区成城で、木造2階建ての住宅から火が出ていると近くに住む人から消防に通報がありました。東京消防庁によりますと、消防車26台が出て火は3時間半余りあとに消し止められましたが、住宅の2階部分の40平方メートルが焼けたということです。

警視庁によりますと、この火事で、この家に住むプロ野球・ロッテの元投手の村田兆治さんが意識不明の状態で病院に運ばれ、その後、死亡したということです。死因は一酸化炭素中毒で、村田さんは、火事のあった当時、この家に1人でいたとみられ、2階で見つかったということです。

現場は、小田急線の成城学園前駅から北に1.3キロ離れた住宅街で、警視庁が火事の原因を調べるなどしています

近くに住む女性は「午前3時前に煙のにおいや消防車のサイレンの音で火事が起きていることに気がつきました。様子を見に行くと煙と火の勢いがすごくて自分たちも逃げないといけないかなと思うほどでした。村田さんは現役のころからこのあたりに長く住まれていて、非常に気の毒だなと思います」と話していました。

70代の男性は「ガラスが割れるような音が聞こえたので外を見たら住宅の2階の窓から火が出ていました。火は屋根より3メートル以上も高く上がっていました。近所でこのような火事があり怖いです」と話していました。

40代の男性は「消防車の音はしましたが、まさか村田兆治さんの家とは思わず驚きました。コロナ禍の前は、近所の公園で遊んでいた小学生に声をかけて100キロ以上に見える本気の投球でキャッチボールをしていたのが印象的で、本当に野球が大好きなんだなと思いました。日本を代表する選手が近所に住んでいることは誇りだったので、このようなことで亡くなられてしまったのは残念としか言いようがないです」と話していました。

村田兆治さんはプロ野球ロッテで「マサカリ投法」と呼ばれる豪快なピッチングフォームで通算215勝を挙げました。

広島県出身の村田さんは昭和43年(1968年)にロッテの前身の東京オリオンズに入団し、左足を大きく上げた「マサカリ投法」と呼ばれる独特な投球フォームから繰り出す速球とフォークボールを持ち味にエースとして活躍しました。

昭和57年(1982年)にひじを故障し、翌年、アメリカでスポーツ医学の権威として知られたフランク・ジョーブ博士のもと当時の日本選手ではほとんど例のなかったひじのじん帯を修復する「トミー・ジョン手術」を受けました。

村田さんはおよそ2年間のリハビリを経て復活を果たし、昭和60年(1985年)には開幕から11連勝をマークして17勝をあげ、カムバック賞を受賞しました。

ほかのピッチャーより間隔をあけた中6日で毎週日曜日に登板することから「サンデー兆治」と呼ばれました。

平成元年(1989年)には39歳にして3回目となる最優秀防御率のタイトルを獲得し、翌年には40歳でふた桁となる10勝をあげ、この年かぎりで引退しました。

プロ23年間で通算215勝、歴代10位の2363奪三振を記録し、平成17年(2005年)に野球殿堂入りを果たしています。

タイトルは最多勝1回、最優秀防御率3回、最多奪三振を4回獲得しています。

現役を引退したあとは対外試合の機会が少ない離島の中学生を対象にした軟式野球の大会、「離島甲子園」の開催を提唱するなど、野球の普及活動に力を入れていました。

亡くなった村田兆治さんと同じ時代に、ともにプロ野球パ・リーグで活躍した元近鉄梨田昌孝さんは「早すぎる。ショックで残念でならない」と心境を話しました。

梨田さんは、プロ野球・ロッテでエースとして活躍した村田さんと同じ時代の昭和47年から昭和63年まで、同じパ・リーグの当時の近鉄で球界を代表するキャッチャーとして活躍しました。

梨田さんは、村田さんが亡くなったことを受けて「早すぎる。ショックで残念でならない」と心境を話しました。そのうえで、村田さんとの思い出について「オールスターゲームでバッテリーを組ませてもらい僕が『ノーサインで受けさせてください』と申し出て、うまくキャッチングできると『お前は日本一のキャッチャーだ』と言ってもらえてすごくうれしかった。キャッチャーとして成長させてくれた大恩人だ」と話しました。

さらに、先に現役を引退した梨田さんが解説者として村田さんに決め球のフォークボールについて尋ねたときのエピソードとして、「村田さんが、人さし指と中指で挟んだボールを僕が両手で引っ張っても取れないくらい力強く握っていた。寝るときもボールを指に挟んで包帯で巻いて寝ていると聞いたときは執念を感じた」と振り返っていました。

また、村田さんが現役引退後、離島で野球教室を開くなどの普及活動をしていたことについては「プロ野球をなかなか生で見ることができない離島にみずからが出向きプレーを見せるということを長年続けていて頭が下がる思いだった」と話していました。

村田兆治さんと同じ時代に、ともにプロ野球パ・リーグを代表するピッチャーとして活躍した元近鉄鈴木啓示さんは「びっくりしてことばが出ない。兆治は年齢が2つ下で一緒の時代を頑張ってきた仲間だった。不器用ながら野球一筋でやってきた選手だった。残念でならない」と話していました。

村田兆治さんと現役時代同じチームでプレーし、その後も親交のあった元プロ野球選手の張本勲さんは「こんなことがあっていいのかという気持ちだ。離島の中学生を集めた『離島甲子園』を開催したり、年6回は北海道から沖縄まで回って野球教室をしたりした球界の仲間だった。残念でことばが出ない」とコメントしています。

村田兆治さんが亡くなったことを受けて、中日の立浪和義監督は「突然の訃報で驚いています。野球に対して素晴らしい向き合い方をされていましたし、憧れでもありました。このような形でお亡くなりになり残念です。ご冥福をお祈りいたします」とコメントしています。

村田兆治さんが亡くなったことを受けて、プロ野球・ロッテ時代の本拠地だった川崎市にあるスタジアムは、現役時代の写真などを集めた、村田さんを追悼する展示を始めました。

村田さんが所属していたロッテなどのホームグラウンド、川崎市の「川崎球場」の跡地には、「富士通スタジアム川崎」が建てられています。

村田さんが亡くなったことを受け、スタジアムは、ギャラリーで急きょ現役時代の写真や、サインボールなどの特設展を始めました。

展示を企画したスタジアムの支配人、田中育郎さんは、3年前に村田さんをスタジアムに招いてイベントを開いたということで、「村田さんはすごく優しくて気遣いのこまやかな人でした。彼の偉大な成績を残すためにも、川崎球場の歴史をこれからも伝えていきたいです」と話していました。

この特別展示は当面続けられます。

#スポーツ