#天皇家
1912年1月16日、白瀬矗率いる日本の南極探検隊が南極大陸に上陸しました。
— RekiShock(レキショック)@日本史情報発信中 (@Reki_Shock_) 2023年1月15日
到達地点を開南湾と命名しますが、上陸、探検に不向きであったことから、その後クジラ湾に再上陸します。
この時点で南極点到達は断念しており、南極の学術調査とともに領土を確保することを目的としていました。 pic.twitter.com/0p83o8vNyu
1919年1月16日、酒の製造や販売などを禁じた禁酒法がアメリカ議会を通過し、翌年に施行されました。
— RekiShock(レキショック)@日本史情報発信中 (@Reki_Shock_) 2023年1月15日
しかし、飲酒を完全に規制することは難しく、秘密の酒場(スピークイージー)が繁昌し、密造酒も高額で売買されました。
写真は禁酒が徹底されていない様子を皮肉った広告です(1926年頃) pic.twitter.com/2i0Qwokji7
1940年1月16日、米内光政内閣が成立しました。
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前年9月にドイツがポーランドへ侵攻したことで日独伊三国同盟を締結する風潮が高まっていました。
これを深く憂慮した昭和天皇は、海軍の良識派として知られ、その温厚な人柄とも相まって人望が厚かった米内を首班に推挙しました。 pic.twitter.com/bF6W3EFsj7
【在庫僅少情報】
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『国家と宗教―― ヨーロッパ精神史の研究』(青167-2)
南原 繁
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カントに依拠し、正義としての「永久平和」の実現こそが国家の使命であると謳った。理念への信頼に立脚する批判精神の可能性を示す書。
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東京帝国大学法学部政治学科に入学する。入学後、内村鑑三の弟子となり、生涯を通じて無教会主義キリスト教の熱心な信者であった。一高に入学したときの校長は新渡戸稲造であり、影響を受けた。
内務省入省。
内務省を辞め、東京帝国大学法学部助教授に就任。内務省時代、アテネ・フランセでフランス語を学んでいた。ヨーロッパ留学を経て、小野塚喜平次の後任として、政治学史を担当。
教授となり、政治学史を担当。西欧の政治哲学とキリスト教をバックボーンに共同体論を深め、その研究は、1942年(昭和17年)『国家と宗教――ヨーロッパ精神史の研究』(岩波書店、1942年)、『フィヒテの政治哲学』(1959年、岩波書店)に結実する。福田歓一(政治学史)、丸山眞男(日本政治思想史)は彼の教え子である。
東京帝国大学法学部長に就任。高木八尺、田中耕太郎、末延三次、我妻栄、岡義武、鈴木竹雄とともに終戦工作に携わるが失敗に終わり、敗戦を迎える。
東京帝国大学総長に就任。
紀元節には日の丸をかかげ、日本精神そのものの革命を通じての「新日本文化の創造」を説く。日本に宗教改革が必要であり、真の覚醒は神の発見とその神に従うことで可能となるため、日本的神学とは別の宗教が必要と述べた。
貴族院勅選議員に任じられる。
単独講和を主張した当時の内閣総理大臣・吉田茂に対し全面講和論を掲げ、論争となった(単独講和と全面講和論)。このことで、南原は吉田茂から「曲学阿世の徒」と名指しで批判された。
貴族院本会議において、新憲法案の戦争放棄条項について、「歴史の現実を直視して、少くとも国家としての自衛権と、それに必要なる最小限度の兵備を考へると云ふことは、是は当然のこと」とした上で、将来日本が国際連合へ加入する場合、国連憲章で認められた自衛権と国連軍への兵力提供義務の双方を放棄するつもりなのか、また講和会議においても最小限度の防衛をも放棄するのか、吉田首相に質問した。そして、「若しそれならば既に国家としての自由と独立を自ら放棄したものと選ぶ所はない」と主張した。
貴族院本会議において、象徴天皇制への移行へ伴う皇室典範改正にともない、「天皇の自発的退位」の規定を設けることを主張。これは南原が昭和天皇の退位を望んでいたためだが、反対多数で否決された。
宮中歌会始召人を務める