https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

d1021.hatenadiary.jp

#天皇家

ja.wikipedia.org

東京帝国大学法学部政治学科に入学する。入学後、内村鑑三の弟子となり、生涯を通じて無教会主義キリスト教の熱心な信者であった。一高に入学したときの校長は新渡戸稲造であり、影響を受けた。

内務省入省。

内務省を辞め、東京帝国大学法学部助教授に就任。内務省時代、アテネ・フランセでフランス語を学んでいた。ヨーロッパ留学を経て、小野塚喜平次の後任として、政治学史を担当。

教授となり、政治学史を担当。西欧の政治哲学とキリスト教をバックボーンに共同体論を深め、その研究は、1942年(昭和17年)『国家と宗教――ヨーロッパ精神史の研究』(岩波書店、1942年)、『フィヒテの政治哲学』(1959年、岩波書店)に結実する。福田歓一政治学史)、丸山眞男(日本政治思想史)は彼の教え子である。

東京帝国大学法学部長に就任。高木八尺、田中耕太郎、末延三次、我妻栄、岡義武、鈴木竹雄とともに終戦工作に携わるが失敗に終わり、敗戦を迎える。

東京帝国大学総長に就任。

紀元節には日の丸をかかげ、日本精神そのものの革命を通じての「新日本文化の創造」を説く。日本に宗教改革が必要であり、真の覚醒は神の発見とその神に従うことで可能となるため、日本的神学とは別の宗教が必要と述べた。

貴族院勅選議員に任じられる。

単独講和を主張した当時の内閣総理大臣吉田茂に対し全面講和論を掲げ、論争となった(単独講和と全面講和論)。このことで、南原は吉田茂から「曲学阿世の徒」と名指しで批判された。

貴族院本会議において、新憲法案の戦争放棄条項について、「歴史の現実を直視して、少くとも国家としての自衛権と、それに必要なる最小限度の兵備を考へると云ふことは、是は当然のこと」とした上で、将来日本が国際連合へ加入する場合、国連憲章で認められた自衛権と国連軍への兵力提供義務の双方を放棄するつもりなのか、また講和会議においても最小限度の防衛をも放棄するのか、吉田首相に質問した。そして、「若しそれならば既に国家としての自由と独立を自ら放棄したものと選ぶ所はない」と主張した。

貴族院本会議において、象徴天皇制への移行へ伴う皇室典範改正にともない、「天皇の自発的退位」の規定を設けることを主張。これは南原が昭和天皇の退位を望んでいたためだが、反対多数で否決された。

宮中歌会始召人を務める

bookclub.kodansha.co.jp