パニーニと梅ソーダ
私はピーチメルバ、娘はマンゴープリンと梅ソーダを注文。
夕食はフライの盛り合わせ、味噌汁、ごはん。
スイカ(小玉)
「人間はつねに、自己の生きている小さな範囲を世界の中心とみなし、自己の個人的、私的生活を宇宙の規準と考える傾きがある。しかし、人間はこの空しい衒い、この区々たる田舎じみた思考および判断の仕方を断念しなければならない。」(カッシーラー『人間 シンボルを操るもの』岩波文庫、P43) pic.twitter.com/aBzkyOfR0L
— 本ノ猪 (@honnoinosisi555) August 12, 2024
「私たち人間は身近な人の世話になっているという意識はあっても、見も知らぬ他人の力を借りて生きているという意識を欠いています。しかし、花に花粉を媒介してくれる虫や鳥や風や水があるように、人間の幸福の実りに花粉を媒介してくれる無数の他者がいる筈です。」(『花と木のうた』青土社、P102) pic.twitter.com/MTermEfKaz
— 本ノ猪 (@honnoinosisi555) August 13, 2024
高校の新科目『公共』の教科書で、帝国書院が世界宗教・民族宗教といった区分について的確な記述をしていて、宗教学者が知人に勧めていると聞く。
— 由愛 (@tenjounoao_yume) August 12, 2024
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「世界の宗教」
近代のヨーロッパにおいて、人類が誕生したときから世界中に存在していた宗教を比較・分類しようとする動きが起った。…キリスト教は pic.twitter.com/EIQNOODM4b
みずからを世界に広がる普遍性を持つ宗教(世界宗教)だと考えた。イスラーム(イスラム教)や仏教もこれにあたるとされた。他方、ユダヤ教や神道、ヒンドゥー教のように、特定の民族や文化のなかで信仰される宗教は民族宗教と位置付けられた。
— 由愛 (@tenjounoao_yume) August 12, 2024
しかしこうした分類自体、キリスト教中心の世界観の
なかで作り上げられたものであり、ほかの宗教からは批判もある。また、同じ宗教でも宗派によって解釈や祈り方などが異なる場合もあり、こうした単純な分類は意味がないとする意見もある。
— 由愛 (@tenjounoao_yume) August 12, 2024
著作者を見ると苅部先生のお名前が。直接この項目を執筆されたわけではないだろうけど、執筆方針は著作者で検討 pic.twitter.com/gSMkl2V7PP
して決めたのだろうから貫かれているものがありそう。研究者の視座・視野って大事だなと改めて。
— 由愛 (@tenjounoao_yume) August 12, 2024
「世界宗教」「民族宗教」と区分して比較し論じたりするのが最早有効ではなくなってきていることももっと知られるといいのだろうと。高校の段階で知ることができれば完璧ですね。帝国書院グッジョブ✨
今村仁司=編『現代思想を読む事典』(https://t.co/xqDc94qil5)
— 講談社現代新書 (@gendai_shinsho) August 13, 2024
思想は常に「現代思想」である。
古典も時代の現実と切り結ぶ前衛であった。枠組みが消失し、実体が宙吊りされたいま、思索するための有効な言葉は何か。現代思想は何を明らかにしようとするのか。問題の所在を提示する。 pic.twitter.com/At1Svwi4bu
#食事#おやつ