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〈専門家への疑問符〉考(第四回)

 例えば「狭隘」ということも、専門家にありがちな性向から来るのではなく、学府で専門家として生きるためには狭く狙いを定めて断章取義をしなくてはやっていけない。専門家も職業人である、職業的(職場的)意識を捨てての研究は成り立たない。

 けれど、専門家はいつでもそこに逃げ込むことが可能だ。本当に興味があるかどうかが前提としては問われない。つまり本当は興味がないから小器用に業績を積み重ねては、突っ込まれないために防御するという非知的行為のほうでエネルギーを消耗することはないのだろうか。

 学術的価値如何ということを言いつつ「成果」を気にしているが、自ら研究の「姿勢」を問わないでは、冒険も意欲も想像も人間としてついえてしまうのではないだろうか。論文になる、というだけなら、人間としてこしらえものに倦んでくるはずだ。

専門家が陥っている狭隘なる世界、時折見かける錯誤した自負はどこから生じるのか

 相対主義、機械主義、実証主義などの弊と共に、西部氏が指摘するような方向喪失と価値喪失にゆきついたアカデミズムの世界には、門外からはわからない「知」の荒廃が横たわっていることだろう。

文献や証拠すら無視したニーチェの主観がむしろ客観的で、現在も大きな意味を持ち続けている

 「思想家とは、自分自身を含めてその時代に対する、また来たるべき時代のための〈裁断者〉たるとともに〈戦士〉としての任務を進んで引き受けたもの、否むしろ否応なくそれを受諾せしめられたもののことに他ならない」

元々任務を帯びて生まれてきた人の中にはミタマを磨くのを止めて拒否する人もいるようだけど、ミタマを磨き抜いた人は形式的には本人の意思に任されるとはいえ実質的には拒否する余地はなくやらされる。
というより、そんな人間に育てられる。
進んで引き受けるのはずっと前の自分の人生を捨てる決意をする段階のこと。