結成の届け出の際に示された玄洋社の基本精神である「憲則三条」は次の通りである。
第一条 皇室を敬戴すべし。
第二条 本国を愛重すべし。
第三条 人民の主権を固守すべし
第三条の「主権」という文言は天皇の大権を連想させるところから問題になり、「人民の権利」と変更することでようやく認可がおりたと言われている。
政党政治が始まった当時の日本で、最も関心が高かったテーマの一つが条約改正である。これは、幕末に結ばれた不平等条約を対等条約に改めようという政治課題であるが、実際に政府が作る改正案はいまだに諸外国の圧力に屈した内容であったため、自由民権運動の流れを汲む活動家たちは「改正反対」を声高に訴えていた。
玄洋社は孫文の革命運動への支援と並行して、明治43年(1910年)の日韓併合にも暗躍したとされている。杉山茂丸や内田良平などの社員もしくは250余名の関係者が日韓の連携のために奔走したのは事実だが、玄洋社が目指していたのは植民地化ではなく、「合邦」という理想主義的な形態だったと見られている。
戦争が泥沼化し、日米関係も悪化していた昭和16年(1941年)9月、頭山は東久邇宮稔彦王から蒋介石との和平会談を試みるよう依頼される。頭山は、玄洋社社員で朝日新聞社員の緒方竹虎に蒋介石との連絡をとらせ、「頭山となら会ってもよい」との返事を受け取った。そこで東久邇宮が東條英機首相に飛行機の手配を依頼したところ、「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった。東久邇宮はこの時の事を「頭山翁は、衰運に乗じてその領土を盗むようなことが非常に嫌いで、朝鮮の併合も反対、満州事変も不賛成、日華事変に対しては、心から憤っていた。翁の口から蒋介石に国際平和の提言をすすめてもらうことを考えた」と書き残している(東久邇宮著『私の記録』)。
これがすり替えられている。
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すり替え・乗っ取り・支配の典型的パターン。