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【幕末から学ぶ現在(いま)】(43)東大教授・山内昌之 坂本龍馬(上)

自ら求めた政治の理想や目標を実現する志に忠実な人物こそ志士なのである。志を果たすためには、既成の権威から迫害を受けることもあり、その結果として死の悲劇に行きつくこともある。

 この意味で志士は、ロシアでいう「インテリゲンツィア」と似たところがある。インテリゲンツィアは、英語の「インテレクチュアル」(知識人)と似て非なるものだ。インテリゲンツィアは、理想社会や人民の幸福を求める志のために、一身を犠牲にする覚悟のある知識人を意味する。

 机上の議論だけでなく、実践において自らの知性や抱負を世に問うのである。19世紀ロシアのナロードニキ運動(「人民のなかへ」と呼びかけ、帝政の変革を求めた運動)の指導者らは、どこか坂本龍馬のような幕末の志士を彷彿(ほうふつ)させないだろうか。

 屈曲した歴史の構図を整理し、複雑な人間模様を解剖してみせる井上氏の技量は、出されたばかりの小ぶりの書物でも発揮されている。そこで井上氏は、龍馬が姉たちとともに和歌や随筆といった和書の古典に親しんでいた事実を重視した。


 確かに、有名な「日本のせんたく」論はじめ、龍馬には仮名の多い気取らぬ文章が多い。漢語は、文字から連想させる観念に、抽象的にからめとられる危険もある。


 しかし、仮名は事物の具体性を浮かび上がらせながら、明快に論理に従った文章を書くのに都合がよい便法なのだ。

 また、独立自尊と自由闊達(かったつ)さも龍馬の個性にふさわしい形容である。封建制度の只中(ただなか)に生まれながら、そこから自然に脱皮しようとするコスモポリタンぶりが平成の日本人に好かれる点なのだろう。

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【幕末から学ぶ現在(いま)】(44)東大教授・山内昌之 坂本龍馬(下)

 こうしたなかでも龍馬の偉いのは、郷士も武士たる者として矜持(きょうじ)をもつべきと考えながら、ぎらぎらした上昇志向であくせくしなかったことだ。実家の才谷(さいたに)屋が裕福な町人郷士だったとはいえ、龍馬には政治の熱狂や有名病から一線を画する聡明(そうめい)さがついてまわった。

 その大きな業績は、大政奉還論もさることながら、生命の安全さえ保証されない志士、すなわち脱藩浪士の保護を実現した大局観にもあった。まさに日本史家、井上勲氏の新著『坂本龍馬』は、龍馬による薩長同盟の切実な動機として志士の保護という点を挙げている。志士を庇護(ひご)してきた長州藩と、庇護する能力をもつ薩摩藩を和解させ、志士の生命保証をはかろうとしたというのだ。

 井上氏は、龍馬に対して薩長両藩のリーダーの信頼は厚くて揺らがなかったとするが、新著ではなぜか、龍馬暗殺の謎や背景については触れていない。思うに、これは実証的禁欲性と仮説的構想力との間に微妙な緊張空間をあえて設けようとしているからだろう。

 ところで、井上氏は、言論が信頼を得られるか否かの基準について、内容にもまして発言者の人格を重視している。言説の内容が発言者の利害に出ているのか、それとも真にそれへ賭けている志の表れなのか、ということである。もちろん龍馬は世に得がたい至誠の人であった。この点で純粋かつ無垢(むく)にロシアの専制社会の変革を志して死んでいったインテリゲンツィアの精神にもどこか通じる。

 しかし、龍馬の場合には、ロシアのインテリゲンツィアより、はるかに妥協の芸術としての政治性も高いのが特徴である。