釈尊在世当時に維摩(ゆいま)という在家出家の篤信の人がいた。僧よりも大悟徹底した人だといわれている。この人が「人間は病気になったり気弱になったりして、どうでもよいなどと考えては駄目だ。一切すべてを投げ捨てて裸の自分を見つめれば常の病は治る」といって人々を浄化させたという。
全く私たちは何時も嘘いつわりの世界に常在しているのであり、自分をなだめすかして生きているようなものである。一度豆を自分にまいて、自分の中に棲(す)む気弱さや悪を除けば如何(いかが)なものだろうか。
ある時、悟りを開こうと努力していた一人の僧が巴陵(はりょう)という禅師に「如何なるか是提婆宗(だいばしゅう)」と問うた。この印度(いんど)の提婆尊者はもとは仏教外の宗教者だったが、悟るところあって仏教に転向した人である。
そして大徳(徳を積んだ人)と呼ばれていた。この問いに対して禅師は「銀椀裏(ぎんわんり)に雪を盛る」と答えた。よく禅の問答で「如何なるか是仏法」などという。それと同じだが、かつて洞山禅師はそうした問いに「銀椀裏に雪を盛り 明月に鷺(ろ)を蔵(かく)す」と答えられたが、その前句を巴陵は用いたのである。
真っ白な銀の椀に真っ白い雪を盛ればどちらが椀か雪か分からない。見分けがつかない。それでは一つになっているのかというと、そうではなく雪と椀とはあくまで別のもの。すなわち自分と他人とは一体ではない、不一不二を指す。