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【世界史の遺風】(46)保科正之 会津名君が遺した教え

 江戸に幕府が開かれ、数代の将軍が君臨した17世紀。そのころのパリの上水事情は、ひどいものだった。セーヌ河から水車で揚水して水路で配るだけだったという。およそ上水などといえるものではなかった。


 ところが、同じころの江戸は違っていた。玉川上水が引かれ、そこから給水された清らかな水が井戸に溜(た)まる。浄水の流れでどの井戸もつながっていたから、年に1回だけ七夕の日に大掃除の一斉作業があったという。多摩川上流の羽村から四谷までの43キロ、標高差92メートルを水路が走るから、1メートル当たり2ミリという高低差の技術だった。


 この玉川上水の開削にあたって、最初に尽力したのが保科正之である。幕閣たちが水路沿いに敵侵入の危険ありと反対するなか、正之は毅然(きぜん)と反論した。


 「一国一郡の小城は堅固なるを以て主とす。天下府城は万民の便利安居を以て第一とす」(『会津松平家譜』)


 首都の治政であれば、万民の安泰こそ枢要だと唱えたのだ。ここには、民草の生活を思いやってこそ為政者なり、という高潔な人間の心が脈打っている。


 正之は徳川3代将軍・家光の異母弟として生まれた。だが、2代将軍・秀忠が奥女中お静に手をつけての出生だから、公には認知されず、お静の姉夫婦のもとで育てられた。やがて、武田信玄の娘・見性院(けんしょういん)にもらわれ、7歳のとき武田家ゆかりの高遠藩主・保科正光の養子となる。幼少のころ苦労を重ねたせいか、義を尊び、弱者や庶民をいたわる心が人にまして強くなったのだろう。


 高遠藩主、出羽山形藩主を経て、家光の治世に、正之は会津藩23万石の藩主に抜擢(ばってき)される。それに天領の一部も与えられたので、合わせれば28万石もあり、徳川御三家に次ぐ家格であった。それだけ、家光は謙虚で思いやり深い正之を厚く信頼していたのである。


 家光は臨終のとき、幼少の実子・家綱のことを頼むぞ、と言い残した。正之は「身命を擲(なげう)って、御奉公仕(つかまつ)る」と答えたという。この遺命を守り抜くために、正之は国許(くにもと)に帰らず、全身全霊をあげて奉公した。


 4代将軍・家綱の治世には、末期養子の禁が緩和され、大名証人(人質)制度が廃止、殉死も禁止されている。関ケ原の戦いからすでに半世紀を経て、武断主義よりも文治主義の時代になりつつあった。正之はこの感覚にいち早く目覚め、幕閣のリーダーとして働いたのである。


 だが、人の世は順風満帆ばかりではない。明暦3(1657)年1月、僧侶たちが火を焚(た)き、棺から取り出した遺品の振袖(ふりそで)を焼こうとしたときだった。炎にまみれた振袖がおりからの烈風にあおられ、寺の本堂の柱にまきつく。それが原因となり、江戸期最悪といわれる大火がおこった。80日間1滴の雨も降っていなかったから、火は3日3晩燃えつづけ、江戸の街を焼き尽くした。焼死者は10万人を超えたという。


 浅草には旗本が1年間食えるほどの米蔵があり、火の手が迫っていた。火消しだけではもはや手が足りない。正之は名案を思いつき、「浅草の米蔵に行けば、米は取り放題だ」と市中に触れまわらせた。焼け出された難民は火を消しながら、浅草に走り、米を運び出す。この機転で、大火後の食糧危機をまぬがれ、江戸の治安が維持された。


 しかも、大火で家を失った町民のために幕府の御金蔵から16万両の巨額を与えようと即断する。反対する老中に、正之は「御金蔵とはこんなときのためにある」と一喝した。


 これほどの人物がいたのか。その生涯は中村彰彦の名著『名君の碑(いしぶみ)』(文春文庫)で語られている。中村氏は近著『会津のこころ』(PHP文庫)のなかでは「日本近世史上最大の人物」と指摘する。