日本語の参るという語は実に興味深い語であります。
例えば男女関係において愛するという場合、英語では“I love you”というのに対して、日本語では“俺は彼女に参った”と表現します。
参ったというのは、単に好きだとか、愛するだとか、いうのとは意味が違います。
これは相手を敬の対象として、己の理想像として礼讃するのです。
言い換えればこの語は、人間的尊さ・精神的偉大さを認識した語であります。
したがって、俗にいわゆる“I love you”に比べると、この語ははるかに発達した語であるといえます。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20121221#1356097656
「仰ぎ見る」ということを知らない人間と「恥づる」ことをわきまえない人間とは、一番非人間的である。したがって、なるべく純真な児童・少年時代に、まず与えなければいけないことは、「敬する」ということと「恥づる」という徳を身につけることである。−−−−何処に参る、行って参ります。お寺に参る。この言葉は、本来、敬するものへ近づこうとすることである。
人の人たる所以は、「道徳」を持っていることである。それは「敬」する心と「恥」ずる心に現れる。
敬する心は、人が限りなく発達を望み、未完成なものに満足せず、より完全で偉大なものに憧れるところから生まれてくる。そして、敬する心が生まれると、必ず恥ずる心が生まれてくる。
敬する心と、恥ずる心は相待関係のものである。
しかし、今日の教育はその大切な敬する心を省みなくなっている。
それは、戦後西洋教育が「愛する」ということのみを重んじる教育であった、ということが一番の原因である。
愛というものは、女性―母の特性であります。愛のみを強調した結果、大事なのは母だけと言うことになり男性―父の存在価値が次第に薄れて行ったのです。
家庭において、子供は本能的に母親に「愛」を、父親に「敬」を求める。人間は敬する気持ちを持つと、自らその敬するものに少しでも近づこうとする気持ちが起こってくる。
愛とは別の憧憬を、その敬の対象に持つようになる。
これを「参」―さんずる、まいると言う。これが更に進むと、側近く仕えたくなる。
「侍」−はべるとか「候」−さぶらうとなる。
【言 霊】
言葉や文字は、決して単なる符号とかでなく、もっと生命もあり、精神のこもったもので、昔から言霊と呼んで、霊という字を当てはめるほどの生き物です。
優秀な民族は必ずその民族の言葉、文字を非常に大切にしている。
【八 変】
自分が変われば相手が変わる。相手が変われば心が変わる。
心が変われば言葉が変わる。言葉が変われば態度が変わる。
態度が変われば習慣が変わる。習慣が変われば運が変わる。
運が変われば人生が変わる。
【人に嫌われぬ為の五か条】
「初対面に無心で接すること」
「批評癖を直し、悪口屋にならぬこと」
「努めて、人の美点・良所を見ること」
「世の中に隠れて善い事が行われているのに平生注意すること」
「好悪を問わず、人に誠意を尽くすこと」
【 母 】
明治初期に、儒者としてもクリスチャンとしても、又教育家文学者として典型的な君子人、中村敬宇(けいう)に「母」と題する名文がある。
「一母有り。四才児を携えて一牧師に問うて曰く、子を教うるは何才を以て始めと為すかと。
牧師對(こた)えて曰く、汝の笑顔の光、小児を照せしより、子を教うるの機會始まると、鳴呼、世、固(もと)より此の母の機會を失う如き者多し。
今世の人、口を開けば聊ち文明と曰い、而してその本原に昧(くら)し、余嘗って謂う、国政は家訓にもとづき、家訓の善悪は則ち、その母にかかわる。
母の心情、意見、教法、礼儀は其の子他日の心情、意見、教法、礼儀なり。
斯(ここ)に知る、一国の文明は、その母の文明に本づくことを。」
〔誇るべきものを鼻にかけない〕のが、〔本当の男〕である。(安岡正篤)
〔自分の周囲環境一切を清く(清潔に)する〕のが、〔婦人の一番の美徳〕である。(安岡正篤)
〔敬〕とは、〔お互いが感心し合う(参る;尊敬し合う)こと〕です。(安岡正篤)
〔学問〕とは、〔自分の内心、真実の人間の在り方を悟ること〕である。(安岡正篤)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20121007#1349617443
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20130625#1372162794