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源義家 - Wikipedia

吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな

1. 駒のひづめも匂ふまで、
「道もせに散る山櫻かな。」
しばしながめて、
「吹く風を 勿來の關と思へども」
かひなき名やとほほ笑みて、
ゆるく打たせしやさしさよ。
2. 落ちゆく敵をよびとめて、
「衣のたては綻びにけり。」
敵は見かへり、
「年を經し 絲のみだれの苦しさに」
つけたることのめでたきに、
めでてゆるししやさしさよ。

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彼は、後三年の役で、多くの関東武士を集め、東北各地で戦ったのですが、上記に書いた通り、朝廷の怒りに触れ、恩賞を全くもらえませんでした。
ここで並の人物であれば、何者ともしれない関東武士達をそのまま見捨てて、京都に帰るんでしょうけど、義家はそれをしなかったんです。
義家は、一緒に戦ってくれた関東武士達に、もともと自分がもっていた所領を少しづつ分け与え、身を削って感謝の気持ちを伝えたんです。

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続いて「後三年の役」でのこと。
清原家衡」軍の籠もる金沢柵へ行軍する源義家は西沼(横手市金沢中野)にさしかかっていました。
ふと義家が上空を伺うと、通常は整然と列をなして飛ぶはずの雁の群れが乱れていることに気付きます。
「さては付近に伏兵がいるに違いない」
そう判断した義家は逆に先手をうち、伏兵部隊の殲滅に成功したのです。


これには前話があり、先の「前九年の役」にて功を立てた義家に対し、大江匡房
「器量は賢き武者ねれども、なお軍の道を知らず」
と、評していたのでした。


批評を伝え聞いた義家は辞を低くして、その匡房の元へ軍学を習いに行ったのです。
先の場面では、まさに教わったことをそのまま役立てたんですね。
これは「雁行の乱れ」といい、義家の人柄を知るエピソードとなっています。


この人の凄い点は素直に自分の欠点を認め、教えを請うたところでしょう。

代々引き継がれた源家武闘派の素地と、和歌を理解する風流な面と、教えを受けた戦術の知識。それらを支える謙虚さと努力。
それが義家の凄さなのでしょう。


後々まで語り継がれ、尊敬されたのにはこうした面があったからなのです。

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