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ソクラテスの死 - ソフィストと民主政治、政治哲学への回帰の欺瞞(世に倦む日々) black9

知と徳と善とは切り離されたものではなく、知識は常に内省を必要とし、説得は謙虚を必要とする。そして、思惟し発見し提起することは一命を賭けたものであり、命を賭けた知でなくては知の輝きと重さを持たない。

ソフィストについては、プラトンによる批判的定義が今日でも通念となっている。それは古代ギリシャにおいて諸国を遍歴する職業知識人であり、裕福な子弟に有料で弁論術のノウハウを売って歩く者である。教授するのは真実の知識ではなくて詭弁術であり、その特徴は価値相対主義で、正義や真善美の基準は都市国家ごとのノモス(慣習・法律)によって異なり、時と場合で判断の妥当性は異なるとした。ミネルヴァ書房の『概説・西洋政治思想史』には、プラトンの章で次のような記述がある。「有料の私塾師ソフィストたちにとって、すでに衆愚と化した人間が『万物の尺度』であるとは、単なる言説を超えた、生きた現実そのものであった。
だからこそ(略)ソフィストたち一般は、『自然(欲望)』を『法習慣』に優先させることによって、力と正義を同一視するという不純な理想を掲げ、伝統的倫理の存在論的拘束を断ち切る自己の絶対化を主張し、個人の無限の欲望と利己主義および功利主義の全面的開放や倫理的相対主義を放言して、むしろ社会的に受容され歓迎されたのである」(P.24)。

ソクラテスに問答法で論破され、無知を暴露されて恥を搔かされたソフィストたちは、ソクラテスを讒謗してアテナイの三人の権力者と謀り告発する。その容疑事実は、ソクラテスはポリスの神を信ぜず、青年を誑かして腐敗せしめるとするもので、全く根拠のない言いがかりの冤罪だった。法廷はソクラテスに死刑の判決を下し、ソクラテスは友人たちに見守られる中、毒杯を仰いで死の床に就く。藤原保信は『西洋政治理論史』(早稲田出版)の中でこう書いている。「価値が完全に相対化し、多くの人々がエゴイズムの中に埋没しているような状況において、このような哲学を実践することは、その下で特権を享受し、あるいはさもなくともそのような状況において安穏な生活を送っている人々にとっては、必ずしもよいものではなかったであろう。否、それは脅威ですらあった」。
ソクラテスはイエスに似ている。アテナイソフィストエルサレムの律法者。岩波の哲学思想辞典の「ソフィスト」の説明には、末尾に以下の記述がある。「このような観点から見れば、価値判断に関しては相対主義的な態度が優勢を占めている現代は、ある意味で『ソフィストの時代』と言えるかもしれない」(P.989)。ソフィストとは何かについては、高校の倫理の授業で教わったのが最初だが、その当時の「現代」は、決して岩波の哲学思想辞典が言うような「現代」ではなく、ソフィストの概念は異端的な部分集合だった。プラトンの正論の時代だったと言える。岩波辞典的な「現代」が始まったのは、80年代からのニューアカ脱構築現代思想一世風靡からだ。

政治哲学の研究者は多くいる。しかし、政治哲学者の姿がない。

学界の「政治哲学」は紙の上の言葉だけであり、単なる字面だけの話であり、要するに商売のネタに過ぎない。政治哲学に回帰したはずの日本の政治学界は、なぜ日本の現実政治に政治哲学を求めないのか。公共哲学を持った哲人政治家の出現を要請しないのか。