https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

キケロbot

徳は、その人の末期においてさえ、その人を捨てて去ることはないばかりか――それが徳の最も重要な意義ではある――人生を善く生きたという意識と、多くのことを徳をもって行ったという思いでほど喜ばしいことはないのだから。(カトー『大カトー・老年について』9)

キケロbot

年とった男が、運動場で選手たちが鍛錬しているのを見て、己れの腕をまじまじと見つめ、涙を流しながら、「ああ、俺の腕は死んでいる」と言ったとか。愚か者め、腕ではなくお前自身が死んでいるのだ。(カトー『大カトー・老年について』27)

キケロbot

しかし、心の動きを忠実に再現する口演は、万人の心を動かすのである。なぜなら、心の動きというものは万人に共通のものであり、誰もが他者の心の動きをその同じ心の動きによって感じ取り、自らの心にその同じ心の動きを示すからなのである。(クラッスス『弁論家について』第3巻223)

キケロbot

口演とは、要するに、心を映す鏡であり、表情は心の映し絵、目は心の指標なのである。(クラッスス『弁論家について』第3巻221)

キケロbot

徳に関しては本人の自覚ほど大きな劇場は無いのである。(『トゥスクルム荘対談』第2巻64)

キケロbot

このことから、多くの真理と呼ばれる考えは、各々「妥当なこと」と形容すべきであり、完全に認識されることはありえないが、ある種の明瞭で注目すべき要素を含むゆえ、賢者はこれらの考えに従ってみずからの生活を律することがうかがえる。(『神々の本性について』第1巻12)

キケロbot

さて、きわめて造詣の深い人たちは法律から始めるのがよいと考えたが、もし彼らが定義しているように、法律とは自然本性に内在する最高の理性であり、なすべきことを命令し、その反対のことを禁止するものであるなら、たぶんその考えは正しいだろう。(キケロ『法律について』第1巻16)

キケロbot

しかし、中でもとりわけ愚かなのは、国民の制度や法律において定められていることはすべて正しいと考えることである。僭主の法律であっても、正しいというのだろうか。(キケロ『法律について』第1巻42)

キケロbot

学者たちの議論で扱われているすべての事柄のうち、もっとも重要なことは、わたしたちは正義のために生まれたのであり、法は人間の考えに基づくものではなく、自然に基づくものであるということをはっきり理解することである。(キケロ『法律について』第1巻28)

キケロbot

私達は何よりも哲学者であること、言い換えれば、作り話ではなく事実を尊重する人間であることを望みたい。(コッタ『神々の本性について』第3巻77)

キケロbot

忘れずにおきたいのは、どんなに低い地位の人々に対しても正義は守られるべきだということである。(『義務について』第1巻41)

キケロbot

正義の基盤は信義である。すなわち、言葉に述べたことと合意したことに関する節操と真実である。(『義務について』第1巻23)

キケロbot

善人が悪人と、悪人が善人と友人になりえない理由は、彼らの間の生き方と熱中するものの乖離がこの上なく大きいから、と言う以外にはありえないのだ。(ラエリウス『ラエリウス・友情について』74)

キケロbot

日々の学問への取り組みや探求そのものが、自ずと無為の喜びを伴いつつさらに追い求めるべき新たな何かを生み出す。そして、対象とする事柄の追究は限りなく続き、日々の経験が学問を固め、程よい努力が傾注され記憶力と熱意が持続する限り、対象の認識は容易なものとなる。(『弁論家について』)

キケロbot

万象の認識の能力と弁論の能力を伝授してくれる哲学者を(真の)弁論家と呼びたいという人があれば、私は全く同意するし、雄弁と結びついた英知を有する人と私が言っている弁論家を哲学者と呼びたいという人があれば、それにも異を唱えるつもりは全くない。(クラッスス『弁論家について』3.142)

キケロbot

詩であれ、弁論であれ、どれほど輝かしい色彩で描かれていようとも、やはり、息抜きのできる部分がなければ、抑制された部分がなければ、多様性がなければ、それが与える喜びは長続きしない。(クラッスス『弁論家について』第3巻100)

キケロbot

要するに、言論はできるだけ心地よいもの、できるだけ聴衆の感覚に浸透するもの、できるだけ多くの事例をそなえた豊かな内容のものであれ、ということなのである。(クラッスス『弁論家について』第3巻91)

キケロbot

私がこの談話全体を通して褒めているのは、青年期の基礎の上に打ち建てられた老年である。(カトー『大カトー・老年について』62)